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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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平馬こそ我等が誇り

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 南派拳法のイメージと言うと、やはり堂々とした平馬なのではないでしょうか。北派で言うところの馬歩ですね。

 南船北馬と言いながら、馬に乗るように大きく腰を割って姿勢を低く落としたこの姿は、少林拳の流れを感じさせる物です。

 これを、船の中でも揺れないようにしっかりと立つことで、独自の船の平馬が生まれます。

 北の馬歩、また空手の騎馬立ちとは実はまったく中身が違う物だと思っています。

 ある先生から教わったのですが、北の馬歩はその歩形を作る過程に発勁動作があるのだそうです。

 なので、他の姿勢から馬歩に、あるいは馬歩から弓歩になる運動で力を発生させて撃つのだと言っていました。

 どうやら震脚というのは、その時の動きで生まれる物のようです。沈墜勁ですね。

 弓歩から馬歩になる過程には回転運動があります。転絲勁ですね。

 この回転を、体を開くことでさらに強くすると十字勁ですか。あるいは、開合という動作ですね。

 これらの三大勁力の理論は、北派では普遍的に行われてきたもので、清朝期に太極拳がブレイクした時に言語化されて広まったと聞きます。

 我々はこれらをまったくしません。

 試しにYOUTUBEの動画などを見てください。代表的な平馬の南派をいくつか見れば確認できるはずです。

 これが、私が言う南船の勁です。

 まるで船が揺れないようにしているかの如く、足元を踏み鳴らしもしないし胴体を回転させもしないし、両手はわりに近い位置にあります。

 きっと、三大勁力理論で割り切れないために、南は力技だなどと言うでまかせが広まったのではないでしょうか。

 南には南の勁力があります。同じような歩形をしていても、まったく中身が違います。

 空手にも、騎馬立ちという物があります。

 これは南の拳法が琉球王国に伝わったのが始まりだからなのでしょうが、日本化してからはまったく中身が変わりました。

 騎馬立ちは平馬の勁がありません。

 そのために、正拳突きには勁力がありません。

 うちの前の代の先生が日本に拳法を広めに来た時に、空手の道場を見て驚いたそうです。日本人、ミンナ平馬出来ナイヨ、と言っていたと聞きました。

 私自身も空手を十年ばかりやっていましたが、まったく平馬の勁を教わったことはありませんでした。

 日本では相撲が盛んで、四股という物があったことが平馬が変わったことの原因であると思います。また、剣術での立ち方も関係したかもしれません。

 体重をうまく使って相手に浴びせるというのが、お相撲の立ち方の構造思想でしょう。これは、もともとの南派拳法の思想とはまったく逆転しています。

 いかに体重を浴びせないかというのが、南の勁力の基本だからです。

 我々蔡李佛拳の基礎の基礎が、五輪馬です。五種類の立ち方の練習をするという物です。

 その、最初の一歩目が、吊馬です。

 これは北で言うところの虚歩に当たります。

 これが、もっとも重要なのが吊馬であるという意味なのではないかと感じます。

 なぜなら、中国武術には単重の原則というのがあるからです。

 つまり、体重は必ず片方の足にあるべしという構造上の教えです。

 吊馬も、ツマサキ立った方の足の体重をいかに減らすかが肝心です。後ろ足一本で立って、そこに軸を作ります。これが我々の勁力の基底となる定力となります。

 この吊馬→定力の法則はあらゆる姿勢に内在します。

 平馬も、騎馬立ちのように体重を分けるのではなくて、体内で片方の足だけに重心を作ります。

 つまり平馬は変形した吊馬なのです。

 これが出来れば、実はあとはもうほとんどのことは要らないのです。これで発生する定力を強化し、そしてそれを打点につなげる功を練ってゆくのです。

 体の中で定力を伝えるのです。

 瞬発も体重移動もしません。ただ、手で打つならきちんと立って相手に触って伝えるだけです。

 平馬の拳法の、真横に打つ拳を見ると極めて奇異に見えます。

 どこも動いていないで、ただ拳をちょこっと出すだけで、打たれた相手がくの字になって苦しみます。八百長のように感じます。

 しかし、これこそが南船の勁力の発勁なのです。

 この不動の状態からトンと触れて効かせてしまうのが私たちの誇りであり、昇華です。

 これに慣れれば、体内に定力を発生させられていればどんな姿勢からでもただトンで打てるようになります。

 スタスタと歩いてきてトンと触れるだけ。これをスタトンと呼んでいます。

 きちんと順番に練功法を学び、きちんと自分の物にしてゆけば、比較的短期間でこれが出来るようになります。

 もちろん威力は功夫で変わるのですが、それでもこれ自体が大変に貴重で、大切に伝えられてきた宝だと思います。

 まだ威力は弱くても、達人の動きそのものだと感じられるものだと思っています。

 スポーツ運動の延長にそれはありません。初めの一歩から決まった道のりがあるのです。

 その一歩目は吊馬で踏み出します。そして平馬で練ってゆきます。 

 平馬で乗っている船が、蔡李佛拳という伝統です。


弁慶と牛若丸

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 本日の稽古初め、コーコーさんと打人の実験をしました。

 平馬で動くことなく、ちょこんと打つという發勁の練習です。

 これは私が高級技法として習ったもので、コーコーさんは初めて行う物でした。

 立ち方も重心も変えない、スタトンの発勁法なので、頭では習ったことをわかっていてもつい格闘技的な打ち方をしてしまう人には大変困惑を招くものです。

 人間、どうしても欲に流されてよけいなことをしてしまう。しかし、我々の拳はタオの拳。法の拳です。自我を主とするのではなく、内を空に澄ませて天地に働く力をただ通すことを学ばなければなりません。

 未経験の状態では、やはりどうしても断片的な力を使ってしまいます。一発目は私の腹筋に当たり、ボン、と芳しい音を立ててはじかれました。

 これは大変面白いことです。かつて格闘技をしていたころには、こうやって筋肉の厚さで攻撃をはじき返してきたものです。つまり、コーコーさんの一打目は完全に格闘技的なパンチだったということです。

 この失敗を体験したことで、どうやら諦めがついたようです。気持ちを切り替えて、二度目で教えに忠実に、結果はどうなってもいいやという気持ちでなのか、すっとただ手を伸ばしてくれました。

 それがさっきと同じ場所に触れると、私の内側、仙骨にまっすぐ突かれた感覚が伝わってきました。

 これです。これが内側に浸透して中に干渉してくる我々の勁力です。威力が強くなっていたなら、私の仙腸関節はゆがまされてしまい、ことによっては歩くこともできなくなっていたでしょう。

 外形に捉われず、伝承通りにただやる。これが暗勁の体得には重要です。

 しかし、人間どうしても不安になって力感を内側に作って安心したくなってしまう。しかし、それは失敗のもとです。

 確認はエゴの欲求であり、自然にあるものではありません。タオに乗っ取ったものではない。則天去私こそが私たちの武術です。ただやれば成功する。

 この我々の武術の勁力を、私は弁慶の勁力と言いました。

 死んでも倒れない立往生の整勁です。

 対して、体重移動の発勁は牛若丸です。

 ある有名な北派の先生は、発勁は走り幅跳びで相手の中に着地するのだと言いました。まさに欄干を飛び移り、八艘飛びを切る体技です。

 しかし我々は、ただ立ち続け、身じろぎもしない定力を求めます。

 それにより、ただ軽く触れただけで相手をフっ飛ばし、バラバラにしてしまう金剛力を生み出すのです。

則天去私

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 稽古に来てくれている学生さんの進歩はうれしいことです。

 先日、勁力の本質が掴めてきた学生さんがぽつりと「いつも言われているエゴの意味が判った」と言ってくれました。

 私はよく稽古中に「エゴで打っちゃダメです」とか「もっとエゴを捨てて」というようなことを口にするのですが、耳あたりの言い単語ではないですね。「エゴイスト!」なんて罵っているようにも感じられるかもしれません。

 ここで言っているエゴと言うのは、老荘思想での後天的な自我である識神のことです。生まれてきてから自分の人生を通して経験してきたことや学んできたことで作られてきた自分のことです。

 世間知や聡明さもこちらに入ることがあるので、決して絶対的に悪いものということではありません。

 しかし、人間はどうしてもこのような部分が強くなりすぎて負担がかかってしまうので、生まれる前から肉体に宿っている自分の部分、身体知や野生の知と言われている部分を取り戻すのが中国武術の特色です。自分の中のそのような面を、識神に対して元神と言います。

 気功や内功と言われるものは、この元神を活性化させて、動物的な部分を活性化させるための練功法です。

 この元神は動物的だけに自然と調和をします。これが老荘思想で最も大切にしている「無為自然」「天人合一」に至るための物です。

 強い打撃をしようとすると、どうしても大きく振りかぶったり力を混めたり不自然な加速をしたり体重をかけたりしてしまいます。

 それらは、識神が手ごたえを求めてするものだと解釈しています。

 自分が大きな力を出しているのだという安心感を、自分に負担をかけることで確認して安心したいというエゴからくる欲求です。

「確認はしてはいけません」と私も教わりました。「人間は確認が大好きです」。

 確認をしてゆけば、目的が確認にすり替わります。自分の弱い心を慰めることが目的になってしまう。こえは自分を弱くする訓練をしているようなものです。

 弱さに飲まれてしまわず、結果に意識を先回りさせず、ただやる。

 この、ただやるということにエゴの切り離しがあります。

 発勁も、よけいなところに力を入れたりラグを作って力感を感じようとさせず、ただ部品として与えられた練功の一つ一つを淡々と組立ててゆくだけです。

 すると、なんの力強さも速度も感じずにただすとんと触れただけで相手の内側に勁力が伝わってゆきます。

 大切なのは、安心できるかどうかではなくて正しいかどうかです。

 正しく行えば正しい結果が勝手に出ます。

 小石を上に投げればやがて下に落ちてきます。どんな気持ちで投げるかは関係ない。ただ自然の摂理が働いているだけです。

 この自然の摂理がタオです。これが、自分の内側にも働いています。

 今の世の中は、口先一つのものいいで自分を慰めたりするスピリチュアルというような物が流行していますが、そのような自我のレベルでのことを自我のレベルでごまかすような習慣からまず離れなければなりません。

 儒者の言葉に、「巧言令色すくなし仁」と言います。上手い言葉や当たりの良い取り繕いに本物はないという意味です。このような世間知はエゴ同士のやり取りには功利もありましょうが、自然に通じるものではありません。

 エゴを切り離したとき、内側に自然の法則(タオ)が満たされて、それがよどみなく働きます。これを則天去私(私を捨てて天に則る)と言います。

 我々は人間を相手に突き蹴りをすることを目的にしているのではありません。

 自然の法則に乗っ取ってゆくことを目的としています。

 エゴのレベルで稽古をしていてはいけない。

 自然のタオに一致した術が行えた時、冒頭の学生さんの言葉のような感慨に至れます。自我による束縛を離れた、ただあるがままの自分を取り戻せます。

 真実と一体となる思想のための行として、我々は武術を行っています。

 エゴを切り離した自分の中にタオが作用しているのを実感できた今、ある意味でこの学生さんの修行は終わったと言ってもいいかもしれません。

 そこが確信できたなら、もう武術を行わないでも、自然の一部として生きるという意味が理解できたはずだからです。

 武術はあくまで手段であって、決して目的ではありません。

出張講習いたします

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出張講習会を承っております。

以前も婦人会からいただいた護身術の講習会の報告をさせていただきましたが、伝統武術の講習会もしております。

このたび、日本式の騎馬立ちと中国南派拳法の平馬の違いの説明を明確にできるようになり、比較検討しながら暗勁をご理解いただけるパッケージングのレクチャーができるようになりましたので、ご希望あればそちらをご紹介させていただきたく思います。

ご興味おありの方は、ぜひおよびいただけましたら幸いです。

究極の突き

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以前に、私が知っている中での究極の突きは、形意拳の物だと書いたことがありました。

形意拳と言えば「半歩崩拳あまねく天下を打つ」とその突きで知られた門派ですが、どの派の物でもそうという訳ではなく、私が言っているのはごく一部の物だけです。

それは、足を踏み鳴らしたり推進する力を相手に打つタイプの発勁ではなく、まったく動きの見えない、ただ手を伸ばして触れるだけの物のことです。

これは非常な威力があり、かつ格闘技的なパンチとはまったく構造が違っており、非常に高度かつ、洗練された物だと思っています。

フェイントやスピードも関係なく、ただ触れるだけというミニマムさをして、私は究極の拳だとここに書きました。体重移動やジャンプしての飛び込みや腰の回転での押し込みや拳のねじりこみでの押し込みなどもしない、勁力特化の突きで、それ以上に無駄をそぐことができないので究極と書いた次第です。

おそらく、形意拳のそのような威力を知る人でこれに異存のある人は少ないことでしょう。

しかし、私には不思議なことがありました。

南でも同じことをしている門派もあるのに、どうしてそちらは究極だと言われないのだろう。

また、形意拳に南派の要素を足した意拳も、技撃に秀でていることや、学問としての精度が素晴らしいことは知られているのに、その威力が強いとは聞かないのはどうしてなのでしょう。

中国の武術の中で、威力に特化した一部の派は技撃に向かないことで知られています。

相手の頸椎や脊椎を破壊してしまうため、試みに手を合わせれば大惨事になるためです。

形意拳のグループのある拳師が、やはり若き日に比武で一撃で相手を半身不随のような状態にしてしまい、地元に住んでいられなくなったという話を耳にしたこともあります。

南でも比武で強いことで知られている派は、威力特化というよりも、技撃性に優っているという物が多いようです。

この辺りが印象に作用して、どうも南派と言うと技撃的という感じになったのでしょうか。

しかし、南と言えば平馬。平馬で一撃必殺の突きを出すというのが、広東系拳法の特徴でもあります。

こう書くと、平馬(馬歩)で威力特化と言えば有名なのは北派のあの拳法ではないか、と思う人は多いでしょう。日本人に大人気のあの有名拳法ですね。

この辺りについて、あの有名北派拳法と、広東拳法はそっくりではないかと言う文章を書いたのが、有名な研究家のK先生です。

K先生、若いころに台湾で広東拳法を修行しており、かなりお好きだったようです。しかし、当時そのような人は非常に少なく(いまでさえだ)、この共通点に関する考察の反応を聞くことはありませんでした。

私たちの門はK先生の学んだ物と直接同じではありませんが、親戚関係にある物です。母拳であったと言ってもいい。

そのため、我々の拳の中には「いや、これ、あの拳法だよねえ?」と言うようなそっくりな動きがあります。

一説によると、太平天国の時に同盟軍を組んでいたので流入したのではないかという話もあります。

最近、平馬での突きをよく稽古していたので、確認のために北派の平馬威力系拳法の大師の動きを研究したのですが、やはり我々のものとは基礎構造が違いました。

明らかに根本的に違います。

ただ、そのクラスの大師となると、人前で見せている物はおそらく、見せてよい段階の物までなのでしょうから、深奥部で何がどうなるのかは門外の私には想像もつきません。

なのでそこはおいておいて、一般に行われているレベルでは、向こうの物はやはり飛び込みながらの動作がありました。

我々は、それをしません。

体重移動をすると威力が死にます。これを「切れる」とよく言います。勁力が切れて短くなってしまう、ということです。

我々は瞬発力、爆発力ではなくて勁力の長さで打っているので、切れるのは重大な問題です。

我々の平馬での突きは、非常に不愛想にただ手をちょこんと出して触れるだけのものです。

形意拳の究極の突きと同じ物で、できるようになれば平馬でなくてもどんな立ち方からでも打てます。もちろん、そのように自然体で打つのを目的にしているからです。

なので、これからは形意拳だけでなく我々蔡李佛拳の插槌も究極の突きだと言ってゆきたいと思います。

最近これができる学生さんも出てきたので、ようやくこれから塔手からの自由練習もできることになります。

このような腕試しは昔の拳師の間で行われていたもののようで、相手を飛ばすまでが紳士協定、決してそれ以上にダメージを与えてはいけないという物だったようです。

まずは威力を手にしてから、当て方の練磨に入るという順序ですね。

未熟な段階で攻防に捉われると、どうしてもその場での勝敗に長じてしまい、核心を得る機会を逸するように感じています。





明日の湘南練習

本日の稽古終了

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 ただ今、本日の関内での練習が終了いたしました。

 基本の馬からの勁力の出し方を学び、そのあとはそれを使って基本の槌を行いました。

 そこから応用編で、勁力の浸透のさせ方を練習。

 私が拳半分ほどの開けた距離からちょこんと打って効かせるのを横から見ていた学生さんが「思ったよりずっとゆるく打ってますね」

 やられると重さが伝わってきて体ごと持ってかれるのですが、本当に動作としてはただ触れるだけなのです。自分がやられるだけだとつい強く打たれたような気になってしまいますが、実際はそうではありません。第三者の視点で確認することは大切だと思います。

 それを踏まえてしばらく、お互いに感想を言い合いながら、表面を傷めつける拙力を抜き、勁力を純化させるためにお互いを撃ちあいました。

 その打法を意識して套路の時間。

 から、今度は自由に動く短打練法の練習をしました。

 接近戦で使うには中国武術独特の橋法が必要なので、それを一つ一つ丁寧に学んでいきました。

 割橋、穿橋、盤橋などは、単なるパリングではなくて、勁力を繋ぐことが味噌です。

 そこから、やはり相手の真芯を輪切りにするように捉える槌につなぐことで、勁力の活用の運用が体に入ってゆきます。

 これを繰り返していると、とっさに相手の中核に向かって勁をぶつけてゆくという、中核同士の戦闘の感覚が入ってきます。

 その後、きちんと勁力で推が出来る学生さんだけ、推掌を行いました。

 これはいわゆる推手の類です。昔、これは相手を飛ばすことが目的ではなくて打点を見つけるのが訓練の趣旨だと習ったことがありました。

 確かに、自由に動き回る中で相手を飛ばすよりも、とっさに打つ方が勝手が良いです。

 それを、かえって難しい推を狙うことで練っているのでしょう。

 この練習をしていると、なぜだか自然にフルコンタクト空手のようになってきます。

 

鉄橋鉄馬

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 本日の稽古では、勁力の効かせ方と言うのをよく練習しましたが、それには位の取り方が重要になってきます。

 上っ面をはたくのではなくて貫通して利かせる訳ですから、きちんとそこが取れる位置が欲しい。

 その場所というのも必ずしも体が真正面にある必要はなくて、勁力さえ貫くように使えるなら、身体は余所を向いていても、手の位置だけがセットされていれば出来ますし、応用として正面に居ながら背後から打つこともできます。

 これは、釣りで川に入る人が掃いているような胴長と呼ばれる体までのゴム靴のような下半身の勁と、セーターを着たような上の勁を併用することで可能となります。

 そのように全身を勁で包んだ状態を、勁力の鉄球と表現しています。

 私達の勁力は打つ時にだけ発射するようなものではありません。まとう物です。

 これをまた別の言い方で、鉄橋、鉄馬とも言います。

 我々の勁力、鉄線功で足から手までを徹しているのですね。

 中国武術のルーツが、実は組み技だと言う説があります。

 取っ組み合いの前提があったうえで、それを土台で当てるように進化したのだと言うのです。

 確かに、それは一理ありそうな話です。

 中国武術は隙あれば相手を転ばせようとします。掃腿という動きが常識的な装備としてあります。

 この掃腿、足をスワイプする動作で行う足払いのように日本人は感じることが多いのですが、実はそうではないと私は思っています。

 掃腿は、タイミングなどで掃う技ではなくて、あくまで勁力で相手を倒すものとして練習をしています。つまり、あれもまた発勁で行うのです。

 きちんと鉄球の勁力が伝わる位置に位を取り、そこから掛ければ、きちんと立っている相手でも倒せます。

 稽古で学生さんたちが試したのですが、同じようにやってもどうも掛からない。踏みこたえられてしまってます。

 そこを勁力で根こそぎに踏みつぶすそうにして倒します。

 巨大な鉄球が根の張った樹を押し倒すようにです。

 これには功夫が要ります。技で掛けているのではなくて、地力の強さで行っているからです。

 私達の拳法は、良くも悪くも力任せ。拙力ではなく、勁力任せにぶったおしてゆきます。小手先の手品ではないのです。

 日々の積み重ねで、その功を養ってゆきます。


勁力の影響

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朝稽古が終わって、午後の練習までの一休みタイムです。

昨日、かなりぶつかり稽古をしたせいか、勁の徹る背中が張っています。

昨日に続いて今日も稽古に来てくれた学生さんは、夜中に目が覚めたら片腕が上がらなくなっていたと言っていました。

これは勁力のぶつかり合いを経験した人の典型的な反応です。

これまでにも立派な先生から何度かそのようなケースを聞いていました。

たいてい、中国に修行に行った初日に手荒く歓迎されて、翌朝身動きが取れなくなっているようです。

交通事故にあった直後は平気でも、寝てる間にこわばっているという例と同様のものでしょうか。首や肩、背中などがまったく動かなくなってしまうことがあるようです。

これはまだ換勁が進むということで、排打功や打樹、打壁功などをしても起きるように思われます。

症状が回復すると、我々が膜と呼んでいる内側の勁力の伝わる部分がさらに強くなります。すると今度は、打ち方は一切変えていないつもりでも、勝手に自分の発勁の力量が大きくなっています。これを繰り返して、我々は独特の肉体の発達をしながら功を積んでゆくのです。

これが、技ではないという由縁の一つです。

私自身は今回、ぐったりと疲れて逆に膜の張りが失われてしまいました。これもまた勁力の疲労の典型の一つです。

こうなると、勁が弱まって威力が出ない。朝稽古では発勁がまったく切れ味をなくしてしまって戸惑いました。

私も学生さんも、こうやって進化してゆくのですね。

できる人とぶつかりながら稽古してゆくと、新しいことを学ばなくても、身体は成長してゆきます。

最近の新古武術、中国武術は、どうも新しい情報とテクニックに目が向いていて、こういう地道な昔ながらの功夫のはぐくみ方が見落とされがちな気がしてなりません。

うちは決して体育会系の団体などではありませんが、同時に最先端の流行りの情報を追いかけて東奔西走する団体でもありません。

伝統をなぞり、伝統を咀嚼してゆくことで、由緒正しい古伝を身に着けてゆくことで、東洋的な身体哲学の知性をライフスタイルに取り入れてゆくことを主眼としています。

澄み切った力

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 今年初の関内ワークショップの内容は「快快」。つまり、いかに速さを出すかという物でした。

 相変わらず各派の使い手が集まるうちのワークショップ。まずは通常の速さを出すための如何に拙力を抜き、代わりに勁で動くかと言う練習をしました。

 これが出来ると、軽やかに速く、なのに重くという両立が可能になります。

 重い打撃を撃とうとするとどうしても動きが遅くなってしまいます。それを解消する対策を、中国武術の定番の放鬆と勁に求めている訳です。

 この二つを獲得するのが今回のテーマでした。

 時に「推」で相手を体ごと吹き飛ばす大きな勁を養い、次は相手を片手で飛ばす。そしてそれを軽やかに行って打に換える練習をしました。

 そうやって、強大な威力を宿しながら、速さに練ってゆきました。

 そうして要領を得てゆきながら、最後には推す力をそのまま打撃に変えます。

 相手を推しとばすのと同じ姿勢からの突きです。

 これが当たれば、体ごと飛ばす力が一か所に瞬間だけ伝わり、打になります。

 大切なのは放鬆。ねじ込もうとか、強く叩いてやろうとか、体重を乗せようとか踏込を使おうとかしてはいけません。

 内の勁を静かにつないだままに静かに当てます。

 雑音を出して内側を騒がしてはいけません。静寂を静寂のままに澄んだ勁を用います。

 これは陰陽の始まりの故事につながることです。世界がまだ混とんだったころに、澄んで軽やかな物は上にいって天になり、重いものは沈んで地になったといいます。これと同じことを体の中で起こします。

 重さを足に集め、軽やかで澄んだ物を上に走らせます。

 混沌の拙力は内には置いておきません。

 拙とは、日本では自分のことを意味することもありますね。謙譲の意味であまり意味のない用法なのでしょうが、こじつけるなら拙力とは自分の力であるとも言っていいかもしれません。ねじ込みや押し込みの自分の力とでも言いましょうか。

 私達の武術は他力を重視します。すなわち拙力の反対の物です。

 ただ敏感に重力に自分をまかせ、天地に働く力を繋ぐ透明な存在に徹します。

 すると、巨大な地球の質量を触れただけで伝えられるようになります。

 だいぶそれを理解してきたうちの筆頭学生でも、まだ濁りがあります。不動の平馬でちょこんと突くのには苦労しているようでした。あれが出来るとかなり中国武術をやってる甲斐がある気がします。

 タイミングや器用さは要りません。実直な自分の内面との対話の積み重ねが、拙力を消し、自然との調和を進めてゆきます。

2月の関内ワークショップは「立ち方特集」です

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 来月、2月の関内ワークショップは、21日の日曜日となります。

 今月は、自然に立った状態(不丁不八馬、高弓馬)からの突きを練習しました。

 拙力で濁らせず、加速によって放鬆を促すアプローチだったのですが、うまく発勁できたり、やろうとして力んでしまったりとみなさん色々で楽しそうでした。

 私の経験からすると、骨格の存在を上手く忘れることが重要だと思います。

 肘や肩など、骨の比率が大きいところはどうしてもその関節のダマの部分を操作しようとして力が入ってしまいます。

 そうすると、勁を繋ぐという意識が骨に向かってしまって途切れてしまう。

 膜を一つの物として意識して動かすのが上手くいくポイントに感じます。“力は骨より発し、勁は肉より発する”“力は散じ、勁は集まる”です。

 これを行うには、あちこちがぴょこぴょこ動かず、しっかりと立っていられるということが大切です。

 きちんと立つと言うのは、実はとても難しいことです。

 骨格をきちんと立てたつもりでも、そこに勁を使うとさらにきちんと立つことが出来ます。

 それはほんの数ミリや数ミクロンの事ですが、結局それが出来ているかどうかが発勁になるかどうかの違いに直結しています。

 そんな訳で、二月は立ち方を特集します。平馬でのちょこん突きが出来るようになる人は出るかな?

 

 時間 18時~20時

 会場 フレンドダンス教室さんhttp://www.its-mo.com/c/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9%E6%95%99%E5%AE%A4/DIDX_DKE,7178697/

 エントランス

  会員     2000

  事前予約  2000

  準会員   2300

  当日     2000


  ご予約お問い合わせはこちらまでsouthmartial@yahoo.co.jp

2月の湘南クラスは14日です

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二月の湘南クラスは14日の日曜日です。

朝の10時からの練習となっております。ぜひぜひいらしてください。

会場は茅ヶ崎は鉄砲道のダンス・スタジオYOU&MEさんです。

会員 2000円

一般 2500円

外国人 500円

抜ける

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昨日のWSで拳打での発勁を説明した時に「打ててる感触が無い」という感想をもらいました。

以前書いたように、手ごたえを求めると身体を力ませて力感をねつ造してしまいます。だから感触はないのですが、そうなると当然出来てるのか出来てないのか分からなくなります。

以前、感触が無いのが正解なのだから自分は出来ているのだ、と自己洗脳をかけていた何もできていない大馬鹿な相弟子がいましたが、こういうオカルト思考の人間が多いのは中国武術の困ったところです。

そういう魔境の誘惑には目もくれずに実を求めていうなら、感触がなくても出来ているかどうかを確認する方法が、足裏の圧着感です。

全身が統合されて一つになっていれば、継ぎ目やラグが無いので体内には力感がありません(理想的には)。ですが、足の裏だけは遺物である地面と接しているので、そこに接着の手ごたえが強く出ます。

それだけが手ごたえであり、手がかりだと思っていいのではないでしょうか。

まぁ実際は、腕にも多少感覚はなくはないのですが。

拳打をすると、すぽんと抜けた感覚がしないではありません。

これを言うと、またなんでも自分に都合よく取ってラクをしたがる馬鹿相弟子のようなのが意識を抜いていいのかなどと言うことを言い出すのですが、そうではありません。

それはただ、砲丸のように腕そのものを投げているだけです。そんなことをするとむしろ身体に反動が感じられる気がします。

イメージとしては、カメレオンの舌のように伸びる笛です。お祭りなどで打っているアレです。

口から出した空気の代わりに、勁力で腕が伸びてゆきます。

そして、伸びたところでスポンとした感覚がごくごく微妙にないこともありません。

長袖を着てやると、手は移動をやめて、袖だけがそのまま前に行きます。その感覚です。

私の動きをみていたダンサーの人が「抜け感」という言葉を使って表現していました。ダンサーにはそういう独特の用語があります。

力み感や何かがダマになったりしてる感じ、詰まりやうねり、溜めをせず、抜けるような動きをすると、体幹の定力がすっきりと手から伝わります。

口伝

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中国武術には、本来段位と言うものがありません。

あれはもともと囲碁などで行われていたもので、講道館が武道に取り入れて以来、様々な団体が踏襲したものだと習ったことがあります。

現在では中国武術でもそのベルト・システムを取り入れているところも多いようですが、そもそもは序列は世代と入門順で決められていました。

しかし、最も実際に格を決定するのは、功夫です。

例えば四世の老師が最後に若い弟子を取ってしまうと、まだ何もできないようなその弟子が、以前にその老師が育ててのれん分けした先生方の古強者の弟子たちよりも上の世代になってしまいます。自分の師父と同じ世代の末っ子になるので、叔父上扱いになるためです。これを師叔と言います。

ですが当然、これでは伝承や内部の理解に問題が生じます。なので、序列は儒的なしきたりとして、実質は功夫を重視した訳です。つまり、武術家としての貫目ですね。

逆によそで名をなした武術家が入門してくる時などは、場合によっては気を使って上の世代の先生に形式的に入門と言う形をとったりしたようです。養子縁組の類ですね。

この、儒教的な序列と功夫のほかに、武術家の評価がうかがわれる部分がもう一つあります。どのような伝を得ているかです。

例えばある人は実力は高くても、どうも人となりや行動に危なっかしいところがある場合、毒手と呼ばれるような危険な手などは伝授しないということがあります。

すると当然、序列や貫目で危なっかしい弟子が上でも、毒手の伝を得た下の弟子は独自の一目を置かれることになります。

いわゆる「備わっている」中国武術はほぼすべてのことが口伝によって形作られます。

個人の工夫や根性で形作られる自己流はあまり意味をなしません。

門派としての「正解」が初めから用意されているので、その必要なパーツをいかにきちんと渡され、正確に組み合わせてゆくかが学習の本質となります。

日本武術や格闘技の経験者は、この部分で挫折する人が多いようです。自分では頑張ったつもりで自己流の動きを編み出しても、それはその門派があらかじめ用意しているものではないため、無意味になるからです。

そのような状態で一時の実力のようなものを作っても、次の伝(パーツ)がそこに組み合わせられなければ意味がないからです。

わかるまでは余計なことはするな、というのが中国武術を学ぶ時には必要になります。立ってろ、と言われたら跳んだり蹴ったりしないで、ただひたすら立つ、というような姿勢が必要になります。

なので、芸の進捗は伝を与えられるかどうかにかかってきます。立ってろと言われて立ち続けて立ち続けて師父がそれをみてよしと思ったときに「んじゃ、その状態でこれやって」と次の伝が与えられます。

なので、平行していろいろなことを練習しておくということが出来ず、まずは立ち方にひたすら三年かける、というような教伝体系になっています。

途方がくれるような学問です。

南派拳法ではこれをかなり早く伝える風習があります。

私たちのところでは、およそ三年で卒業を目安に教授を行っています。

なので、続々と大事な伝を渡してゆくことになります。

ここで問題が。

常に大切で必要不可欠な本質のことばかり言うため、聞き落としが多い。

そうなるとパーツの足りないまま組み立ててゆくことになります。

場合によっては最終的に作動しない可能性があります。発勁不発です。

さすがにそうなるとまずいので逐一仕上がりを確認しながら練功してゆくのですが、言われても言われても言われた通りが出来ない人もいます。

不器用でうまく出来ない人は、時間をかけてゆっくり身体に染みつかせてゆきます。

これが功夫です。

不器用で鈍い人のために、この仕組みがあるのではないかという気がします。

私自身も物覚えが悪いので一つ一つメモを取り、整理してゆきました。

中国武術は師父といるときに練習しない。それはチェックと伝授の時間で、練習をするのは持ち帰っての自分の時間でです。

そのような学習の仕方を教えてくれた先生に非常に感謝しています。もし、気分転換の土曜練習、日曜練習のような取り組み方をしていたら、私は一生何もできなかったでしょう。

自分一人で、よく考えて自分のペースで一つ一つ身に着けていけば、いつか必ず必要な物が抜け落ちるところなくみな身になります。

だからきちんと備わっている中国武術は、誰にでも身に着けることが出来ると私は思っています。

その目安が、およそ三年。半年、一年くらいで大まかなことが分かってきて、自分自身で感覚を頼りに技術を深められるまでにもう二年。

こうなれば、あとはもう一生、自分で自分を磨いてゆけるはずです。

現在、もっとも器用な学生さんは一年半ほどでほぼすべてのことを終えました。

器用な人で、私がしなさいと言ったことをして、してはいけないと言ったことをしないというのを積み重ねてきただけです。

それだけでもう、私と勁力比べをしても思うままには飛ばせないだけの実力を築きました。

まだ私を飛ばすことは出来ないのですが、それは純粋に功夫の問題です。三年を超えれば、あとは自分でいくらでも功を深めることができるので、私の練習時間を追い越せば実力も追い越すことでしょう。

そうやってのれん分けがなるのは、私には喜ばしいことです。ぜひたくさんの心ある人に、私がサルベージしてきたこの宝を持って行って欲しいものです。

いつまでも人の言うことを聞かないで適当なことばかりしている人はほおって置きましょう。

何物にもならないまま人生を浪費してゆくだけでしょうから。

内家拳

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 中国武術の世界ではよく、内家拳と外家拳の分類が言われます。

 しかしこれは一般に北での通説らしく、南拳にはこの分類はないのだと聞いたことがあります。そのため私は、外家拳というものがどういう物なのかをまったく知りません。

 我が蔡李佛拳では、南北合一、剛柔合一、長短自在が謡われているため(洪拳と北派少林の融合なので)、よけいにいわゆる外家という概念を取り出して学んだことがありません。

 聞いたところによると、内家三拳といわれるグループのほかはみんな外家拳だなんて話もあるようです。

 その内家グループの人たちが私の動きを見てあれは内家だとかどうなってるんだなんて話をしたりしていましたが、私には知ったことでもありません。私のしているのは伝統の鐵腺功で、他の人たちのはそうではない。それだけです。

 しかし、同じ南の拳に、内家拳という拳法がそう言えばあったなと言う話を思い出しました。

 もともと、その拳の高名にあやかって、内家三拳では内家を名乗りだしたというのを、有名なK先生の本で読んだことがあります。

 K先生の研究によると、その内家拳というのは短橋短馬の、福建系の南派拳法であったそうです。

 世に広めた人の名前は王征南。おなじみ明末清初の人で、その師は仙人の張三豊であったと語られていますが、それはもちろん仮託でしょう。

 太極拳もまた張三豊開祖説を仮託したりするようですが、この張三豊、仙と言いつつ少林寺の出自だと言われています。この辺りが中国において、仏道、道教、儒教の三道が分かちがたいと言われるところに思います。

 張仙人は少林で拳を極め、その主豪の特性に改めるところを感じ、そこから内家拳法を編み出したというのが伝説の概要です。

 これはちょっと面白いところです。

 と、言うのも、同じ短橋短馬でカウンターを主体とするというのは福建拳法の定番で、詠春拳や白鶴拳と共通点が多いからです。そして、三者とも少林で学んだ拳を改定していまの形にしたと言われています。

 ここに、何か共通の拳法の存在が垣間見えるようにも感じます。福建鶴拳グループの祖は実はこの内家拳だったのかもしれません。

 こんなことを書くと、お前はそれでも広東南派拳法の伝人かと先輩方に怒られてしまうかもしれませんが、ポジション・トークは嫌いなので書いてしまいますと、もしかしたら洪拳から詠春拳が派生したというこれまでの説は本当は逆で、詠春ないしその母体の福建内家拳から洪拳が影響を受けたのかもしれない。

 私は良くも悪くも外国人で、中国でのルーツ争いというようなことにはかかわっていないので、どちらが先でもまったく差支えありません。

 しかし、これを通して見方が広がった結果、実は南派の代表である洪拳、詠春拳、白鶴拳、蔡李佛拳が、実は内家拳とつながっており、そのために柔らかい内勁をもっぱらとしているのだとしたら、これはなんとなく納得の行く話の気がします。


戦い方

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 ここのところ、スタトンの段階を教伝しています。

 スタスタと歩いてトンと触るだけで打つという、中国武術の一つの在り方ですね。

 私は現代武道や古武術、総合格闘技やヴァーリ・トゥードなどを経てきてから、中国武術に入りました。なので、なんでもいいからとにかく戦う術として中国武術を学んできた訳ではありません。

 やはり中国武術には伝統的な身体操法や中国思想がもっとも重要だと思っています。

 しかし、時々戦い方について思うこともありました。

 中国武術は、攻防向きではなくて暗殺向けだなどと言う話を聞いたことがあります。それはこのような構造のためでしょう。

 一方で、中国武術の中でも技撃を重視した物もあります。そのような派では様々な橋法からの戦術を充実させており、大変に理解のしやすい構成に見えます。そういう門派がうらやましいなあと思うこともあります。

 蔡李佛拳は革命兵士の多数戦を想定して全体が構成されていますので、初期の段階では最大限大きく広範囲にわたって攻撃が出来るように練習します。一対一でじっくり交戦するような攻防手段はその段階では学びません。

 強い勁力が養えてきてから攻防の手管を養成してゆきますが、この段階でもやはり、かなり早い期間で決着を求めるような戦い方です。虎が羊をとるように体ごと食らいついてゆきます。

 相手が受け止めればそのまま勁力で正面対決を挑み、良ければ遠くまで届く槌が当たります。

 橋のわたり方が手だけではなくて体全体でになります。

 そうして体ごとぶつかり、それで相手を打倒し、あるいは崩したりしつつ倒れるまで連撃を放ってゆきます。さばいて間合いを確保するというような攻防は選びません。

 強固な相手の場合には掃腿などで倒しにかかり、さらに手堅いならそこで初めて変わって変則的な角度攻撃に入ります。

 この角度攻撃が、初期に学んだ広範囲打法なのですが、それを実際に使うまでにずいぶん段階があります。

 ここに、いわゆる単打系の拳法との違いがあります。

 接近はしてゆくのですが、その間合いで戦うわけではないのです。

 よくも悪くも勁力任せです。

 平馬でちょこんと突く練習で威力は養いますが、それで戦うわけでもありません。

 とにかく襲い掛かってゆく。

 私はかつて形意拳を学んでいたので、近場での動きは個人的には少し似てしまいます。

 このような戦い方は、蟷螂拳にも似ていると友人から教わったのですが、たしかにそうかもしれません。

 しかしおそらく、鋭さよりは重さや圧力に優ったものになっているように感じます。

 このような戦い方を、勁力の圧が詰まった鉄球と表現しています。

 ゴロゴロと転がって相手を踏みつぶしてゆきます。

 手先の攻防はしません。 

 技を学んでも法を知らなければ遅れをとると言います。戦い方を知ることもまた、学ぶべきことの一つなのでしょう。

形意拳

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形意拳は、日本では大変にポピュラーな拳法です。昭和の中国拳法の草創期に、太極拳と一緒に伝わってきたからでしょう。

中国では、名前は知られているもののそこまで誰もがやっているという物ではないようです。内家三拳の一つとされていますが、まったくそれらしい感じの少ない奇妙な拳法です。

また、技法が少ないのもすこし中国の人にとっては物足りない印象があるのかもしれません。

しかし、これはスタトン型拳法、スタスタと歩いてトンと触るだけを目指すタイプの拳法としては、ある意味で当然の帰結の気もします。

とはいえ、基本拳たった五つ、応用法(練功法?)十二個というコンパクトなまとまり方は、ずぶの素人から始めたとしたら大変に至るのが難しいように感じます。なにせ階段の一段ごとが高い高い。私自身も長い年月大変に苦労しました。

ですが、不思議なことにいま、蔡李仏拳でスタトンの位置に来たところ、ほとんどのことが形意拳の形に昇華されるようになってしまいました。

蔡李佛の基本権は八卦拳法と言いますが、実際のところは四つほどです。これも非常に少ない。

それに、五輪馬という五種類の歩法を足して蔡李佛の基礎の形になります。

蔡李佛は大開大合と言って、まずは大きく学びますが、勁が出来てくるとそれらを統合してまっすぐに小さく打つようになります。

それが出来ると、今度は接近戦法で使うようにし、最終的にはスタトンになります。拳半分ほどの距離でもトンと触れば充分です。

この段階になると、まったく形意拳と見た目の区別がつきません。

そのため、最近では私は形意拳の練習をするとかなり場所を取らずに稽古が出来ます。

よくできたよい拳法だなあと便利に思います。

冬場で厚着をしているので、動きが小さいと着崩れせずに大変助かります。

ただこうなると、もう武術としての個性が表面にあまり出ないので寂しくも思いますが、同時に形意拳というのが、もはや没個性になるまでにシェイプされたものなのかもしれないと思うと、入口はどうあれスタトン系なら最後はなんでも同じだなあと思いもします。

ただやはり、いきなり完成系からは難しい。

インドネシアのクンタオ・シラットは鶴拳から生まれていて、最終段階になると形意拳を学ぶそうですが、おそらくは私のたどった道と似たようなことなのではないかと思われます。

形意拳の変化

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 拳法を小さく打てると、形意拳のようになってゆく、というのはよく聞く話のようです。

 太極拳の先生が勁は形意の物だったり、八卦掌と言いながら実は形意であったりと言うのはよくあると聞いたことがあります。どちらも知らない私には見て取れませんが。

 私の場合は、学んだ形意拳が特殊な物で、他の形意とはまったく違う物になっています。ドンドン足を踏み鳴らすような上下運動のともなう物ではまったくありません。

 なので、たまたまそれが南船の勁と同じ静かな物だったので私は蔡李佛と形意がつながりました。

 形意拳と言えば縦の回転力を使う、と言う話をいくつかの場所で読んだのですが、それに対しては首をひねってきたのは、自分の形意拳が余所のとまったく違うからだと思ってきました。

 なにせ見た目がシンプルなだけに、さまざまな方法がその形で行えます。

 しかし、縦回転とはなんでしょう。人間がそんな風に回るのはバイシクル・シュートかルチャ・リブレかなんて思ってしまいます。

 ですが、少しそれらしき物に心当たりが出来たのは、客家拳法を学んだ時です。

 そこで、浮沈という発勁法を知りました。

 背筋をのけぞるようにした状態から、パンチング・ボールのように前に振るような動きです。実はこれ、福建拳法でも行うそうです。

 客家拳法も、福建拳法も、おそらく共通性があるらしく、短橋短馬で、橋法を多用し、単打を撃ってゆく似た構造のものです。

 これ、ある意味で形意拳にもとても似た姿勢です。

 私の学んだ系統の形意拳は、このように上半身を振って相手にぶつけるような発勁をしてはいけないと固く戒めていました。一打の勁力が足りないと言うのです。短勁と長勁の違いです。瞬発などをして短い発勁をするのではなく、動きの見えない長い勁を要求されていました。

 しかし、勁の種類は違えど、形意拳、客家拳法、福建南拳というのは、とても似て見えます。これはもしかして、何か伝播の経緯のような物があったのではないでしょうか。

 と思って調べてみたら、形意拳は少林寺にルーツがあると書かれた文章がありました。開祖が少林寺で十年修行を積んで編み出したと言うのです。少林寺にはこの時の名残で心意把という拳法が残っていると言われます。

 この、少林拳をまとめて小さくして勁を見えなくしたのが形意(心意)拳だとして、それが変化しつつ南下した可能性は充分あり得ると思います。

 そうでないにしても、少林拳が小さくなると形意拳のようになるというのは発生に由来するからと言える可能性があります。

 だとすれば、私の蔡李佛拳もまた、小さくなったら形意拳のようになったのも当然と納得のゆくことです。

形意拳と縦の発勁

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 形意拳が、少林拳がコンパクト化されて内勁が見えなくなってゆく段階を取り出した拳法なのではないか、というのが、前回までに書いた私の見解です。

「一般に少林拳てのは大きくやってるけど、中身はこうなんですよ」と言った感じに思っています。

 ただ、その中身の部分にも各派で差異があって、私の学んだ物は極端に見えない暗い勁の物でした。教えてくれた先生は中国大陸で良い武術を探していた時、難しい拳法として知られているというので学びに行ったのだそうです。

 確かに、見えない物を学ぶのは果てしなく難しいことです。

 そのためか、一般に行われている形意拳はかなり見えるようにしているようです。それが足を踏み鳴らしたり、前述した浮沈のように体をくねらせる動きに出ているように感じます。

 しかし、私の学んだ派の掌門の先生曰く「上下は同一する」。上と下でずれがあってはいけないそうなのです。なので私もそのようにしています。

 これは、形意拳の有名が訣である外三合の問題でもあります。手と足が同一であり、肘と膝が同一であり、肩甲骨と胯が同一する。

 上下がずれるのは、手足と肘膝が着地点一致していても、最後がずれているということではないでしょうか。

 前の二つは、少林拳でも習ったことがあります。となれば、最後の部分が実はすごく門派の核心的な部分なのではないかという気がします。

 この最後の部分、肩甲骨と胯とは何かということですが、ご存知のように胯というのは腰骨、腸骨のことだと言われています。

 手と足、肘と膝は分かりやすいですが、この肩甲骨と腸骨というマニアックな部分がフィーチャーされるのはなぜでしょうか?

 それは、中身が丹田だからだと解釈しています。

 腸骨の中には、いわゆる丹田、下丹田があります。肩甲骨の間には壇中、中丹田があります。肩甲骨と胯が合うとは、下丹田と中丹田が一致すると言う風に私は受けとりました。

 こうなると、上下がずれるということはありません。

 背骨をグネグネ振って振り撃つという南の浮沈的な使い方は、ここで否定されます。我が派では。

 また、ある有名な自己流解釈でたくさんの門派のやり方を公表するので有名な先生は、形意拳はまず下半身で勁力を上に向け上半身でそれを下に落とすバレーボールのようなものだと書いていましたが、これも我が派では否定されます。そのようなラグを作らないからこそ、勁が見えないのです。

 しかし、これらは完全に間違っていて、完全に否定するべきことでは決してありません。そのように解釈することもできるからです。

 私が直接習っていた先生も「上半身が下半身に対してわずかに遅れる場合もあるがそれでも打てる」と言っていました。

 しかし、これは決して上半身を鞭やブラックジャックのように振ることで威力を出すという意味ではありません。我々の勁では、うねったり溜めたりは決してしてはいけない。それは見えない暗い勁ではない。

 下丹田と中丹田は、勁力でつなぎます。これを、私たちは後力と言います。こうして合一した体の力は足の裏に帰結するので、手で打つとしたら背中から足の裏までが一つに繋がっていることになるわけです。

 なので、たしかに場合によっては、足の裏から掌までの連結が、移動して打つ場合には上下のラグが発生しうることもありえるわけです。まず足から移動して、手で的に触るわけですから。しかし、この際の上下のラグをきわめて小さくすることがすなわち整勁の強さになります。

 そもそも、このわずかな遅れというのは、本当にミクロン単位の物で、目に見える揺動のようなものではありません。勁の動きというもの自体が、ほとんど目で見ては分からない、手で触れて確認してもらうようなものなので、ずれていると言っても外から分かるようなものではないのです。

 とはいえ、実際には移動して的に近づいた段階でさらに距離の微調整のしなおしなどがあるので実際にはそれが動いているように見えてしまうんものなのでしょうが。

 ある先生が「形意拳はハサミのように勁が働く」と言っていました。

 聞きかじりなので正確に真意は受け取れていないかもしれませんが、これがおそらく、足の裏から背中の一致です。後力でそれを一本につなぐわけです。

 そうすると、足が後ろに伸びるベクトルの力が働くのと、手が前に出る力が一つになります。水面から顔を出したワニが口を閉じるようなイメージです。これはハサミに似た動きともいえる気がします。イメージしずらい人は実際にハサミを目の前に立てて試してみてください。

 この動きは確かに、動いている方のハサミのパーツに当たる手足だけを取って見ると、縦回転をしてると言えないこともないように思います。

 形意拳のすべての動きの母体となるのは、劈拳だと言われています。上から下に打ちおろす動きです。ハサミの動きはまさにこれですね。これを内部消化して、横からやまっすぐの発勁に変化させます。

 我々の勁は瞬発する力ではなく、動かないための力、定力です。この力ではなく、動く力で打とうとすると、ブラックジャックのような上半身の振り出しになるのではないでしょうか。これが、見えない形意拳と見える形意拳の差異であるように思います。

 なので、膜を通る勁を根本にしているのか、いろいろな部分の力を合一して瞬発させたものを勁と呼んでいるかでスタイルが変わっているのではないかと現状みなしています。

 ハサミのパーツで言うなら、動かない方と動く方のどちらをフィーチャーするかの違いです。

 そしてこの違いは、広東南拳と福建南拳の違いでもあるようなのです。

 体に勁力の鉄芯を通して使う鉄線功と、切れ味の脆勁の違いです。鉄線は動かないので見えない。

 以前に、内家拳というのはもともと王征南という人の伝えた短橋短馬の福建系拳法だという説を書いたことがありました。

 形意拳の形というのは、実はこの福建拳法によく似ているように思います。

 五祖拳や白眉拳などはかなり形意拳ぽい。

 こうなると、むしろ内家三拳と呼ばれる他の太極拳、八卦掌と、形意拳がまったく似ていないのに、なぜか内家に入っている理由がこの辺りにあるのではないかとさえ思えてきます。

 かつて少林寺は、様々な地方の武術家を招き、拳法の研究をしていたといいます。王征南の南派内家拳から形意拳につながる何かの流れがあったとしても不思議はないのではないかと思っています。

 我々蔡李佛拳の発勁の基礎となっているのは、陰陽長勁と言って、全身を陰陽マークのようにみなして使う発勁法です。まさに縦回転のように図形化されています。

 おそらく、蔡李佛の動きを見てそれが縦回転だと言う人はいないでしょう。鉄線功の内勁で内側を通っている見えない勁だからです。

 陰陽マークには、内側に陰陽を分ける波線が走っていますね。あれがハサミの部分。勁の通っているラインです。

 蔡李佛の外形は陰陽マークの外側の円のラインがよく見えますが、実相はその内側の波線に集約されてゆくのです。

 このような、南少林拳と内家拳の考察についてはあまり日本では目にしなかったような気がします。この辺りの部分は今後、我々が掘り下げてゆくべき部分なのでしょう。

2月14日 湘南クラスのお知らせ

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二月の湘南クラスは、14日の日曜日、朝の10時からです。

場所はいつもの茅ヶ崎駅は鉄砲道のダンススタジオ、YOU&MEさんです。

よろしくお願いします。

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