ポストモダン的なオタクやヤンキーの様態と優位性、問題点を挙げたところで、もう一度時制に目を向けてみましょう。
確かに戸塚校長が言ったように、彼らの行動は80年代で言うなら「情緒障害」と言われることもありうると思われます。
私自身も、まともに物を判断できていない、その場で何が出来ているのかも理解できていない、自分が誰で何をしているのかもわかっていない、その場ごとサイコロの目で行動を決めているようにやることがでたらめ、話が一切通じないというポストモダンな人たちに関しては、発達障害の類なのだろうと思ってきました。
知能か人格に障害があるのであろうということです。
確かにもし、太極拳とニンジャを混ぜてブーメランを使う先生や我流の剣術武者修行者が交戦中の国に投げ出されて昨年のミンダナオであったような都市戦に巻き込まれたなら、びた一文なんの役にも立たずいたずらに死亡することでしょうが、高度経済成長社会においてはある日思い立ってその自由な発想で取った面白い行動をして暮らしてゆくのは割合いに幸せな生き方なのかもしれないという気がします。
つまり、ポストモダンの時代を迎えたエリアにおいては決して間違いとは言い切れない。
発達障害は進化の過程だという学者が居るとちょうど先ほど映画で観たところなのですが、生命の在り方においては環境への適応こそが最も優位を左右します。近代からポストモダンへと時世が変わったことで人間の在り方が進化したとしても不思議はないのです。
とはいえ、自己同一性を求める生き方を望むなら、これは大変苦しいことになる。
身体の色を変えることを辞めたカメレオンのようなもので、持ち味が非常に発揮しづらいことでしょう。
私たちの、伝統思想によって現世を生きやすくしてゆこうという考え方は、大変に古いと言えます。
しかし、この時代にまだそのような生き方をしたいと思う人が皆無では無いのもまた事実。
そしてそのような人たちが、常に一貫性という物を持ち合わせない、断片の寄せ集め以上の人格を持ち合わせない人たちに囲まれて生きていたら、これは大変にストレスフルなことです。
そのような人にとっては、ライフスタイルとしての伝統武術や気功は生きるために必要な軸としての機能を果たしうることでしょう。
そこに断片の寄せ集めではない、一貫したタオが通っているということ、その上に自分で立って歩くと言うことは、確かな手ごたえを与えてくれるはずです。