ショーペンハウエル先生曰く、無には二種類の物があるそうです。
一つは、消極的な無という物だそうで、これはつまり、相対的な無という物だそうです。
いかなる無であろうと、結局は有と対になった相対的な物であり、より無に近い視点から見れば有寄りに見えるというタイプの無です。
それともう一つは、否定的な無という物だそうです。
こちらのほうが哲学的な意味でより重要な無であり、知覚さえも出来ない無という概念だと言われています。
しかし、知覚が出来ないのなら存在が確認できないではないか、という意見があるのですが、これはおそらく宇宙科学におけるダークマターやブラック・ホールなどの研究の思想的な土台になっている物ではないかと思われます。
そんな否定的な無ですが、実は現実に存在している確認可能な例がいくつかあります。
その一つが、忘我状態だそうです。
ショーペンハウエル先生というのは19世紀の東洋思想への傾倒の第一人者でもあるので、インドのヨガや仏教を研究していたのですが、それらの行者が瞑想を行って忘我や入神に至る時、その時の自我は通常時の知覚を越えたところにあるとしています。
その状態が精神が否定的な無になった状態であり、これこそが哲学的にはとても良いことであると書いています。
そして、いつも書いているように、少林武術というのはヨガの流れを汲む仏教の武術であり、この否定的な無を得るために行う物です。
歴史的に明確に描写されているように、中国においては邪教集団によって武術を用いた反乱が繰り返しおこっているのですが、これはまさに薬物などによって無理やり忘我にした拳士を用いた物で在り、正統な少林武術における無を得る行の左道の面となっている訳です。
ちなみにフィリピン武術の土台にはムスリムとの長い戦いの歴史があるのですが、モロ族やチャモロ、モロモロと呼ばれるジハーディストたちはホラメンタードと言って沐浴、潔斎、剃毛をして自爆攻撃をしかけてきてフィリピンの防衛側を震え上がらせていたと言います。
このようなムスリム自爆攻撃を仕掛けてくる人のことを、英語ではアサッシンと言いますが、それは沐浴などの儀式の間に吸って忘我状態に至っていたハシッシが語源だと言われています。
邪教の儀式とアヘンやハシッシを用いずに忘我の域に至るのが正しい禅の行としての少林武術であり、邪教拳士やアサッシンと同じく無意識の反応で戦える状態に至っているのが本来の在り方です。
そのために、エゴをいかにして切り捨ててゆくかが練習の本質となるのですが、いや、これが皆さんエゴに凝り固まっていて、中々出来るようにならない。
私が言っているようにただやればいいだけなのにどうしてなんだろうといつも首をひねっていました。
ただ単に、右側から左側に棒を振るだけ、これがあまりにも多くの人に出来ない。
変な加速や力みをしてしまったり、人の顔色を見て途中で引き戻してしまったり、中途半端なところで勝手に止めてしまったりする。
ただ右から左に棒振るだけですよ。
一日棒を持たせておいたら何百回でも無意識のうちにぶらぶらやっちゃうようなことですよ。
でも、それをさぁ練習ですよやってくださいと言うと出来なくなってしまう。
恐ろしいまでのエゴの執着が心に凝り固まっているからです。
よく放鬆という言葉が使われますが、これは身体と共に心にも行われないといけない。
心ここにあらずでただやる。
なんでそんなことが出来ない? と思っていたのですが、ショーペンハウエル先生曰く、これらのことは個人体験に基ずく物であって、継承することは必ずしも出来るわけではないのだそうです。
あー。
私の場合はおそらく、古武術時代に苦行を何度かして、意識がなくなった状態で立って何かの技をしていたというのを繰り返していたために、脳の回路が開いてしまったこともあって割とこの部分がどうにかなったのかもしれません。
とはいえ、それでもせっかくやっているのだからせめてきちんと決まった気功をしっかりとやって、瞑想に馴れた心身を作り、その状態のまま武術が出来るということを目指してやるというところまではしないともったいない。
形や上辺の威力に囚われて変な力でおかしな動きをする練習をしても、なんの進歩もありはしない。
そういった形式主義や自己中心性を捨てて、昔から決まっていることを決まっているようにただやるだけということが間違いの無い王道なのだと思います。
おかしなエゴを捨てて、ただやって無に至れた時、その動きこそが上乗の物に結果としてなっている。とされています。