戦前、大亜細亜主義という言葉が力を持っていたと聞きます。
のっけからすごい言葉が出てきてしまいました。ここは武術と気功のページです。
まぁいつも伝統思想と歴史のことばかり書いているのですが、今回このことを書くのは明確なきっかけがあります。
それは、前々から探していた「孫文の義士団」のDVDをディグり当てたからです。
この記事を書いたら観ようと楽しみにしています。
90年代の黄飛鴻映画でひと段落したのか、近年歴史の最前線にいた武術家のことを描いた作品がとても少ないです。
おそらく抗日ドラマというのが関東軍と武術家が戦うような内容でそちらの流れを汲んでいるのでしょうが、日本人が観れる環境の作品としてはとても少ない。
本来、中国武術家というのは国家同士の軋轢の最前線に立たされて来た人たちであり、それゆえに英雄視されてきたはずなのですが、そのような古式ゆかしい民族的武勇伝はいくらか国粋主義的に過ぎ、時代遅れとなってきているのかもしれません。
それは思想の発達という意味では私は非常に良いことのように思います。
ですがそれはそれとして、伝統的な芸術のことを学ぶには歴史を知らなければ片手落ちになりえます。ですのでこの文に至った次第。
大亜細亜主義というのは、超国家主義と呼ばれる思想の一つで、アジアを一つとして西洋圏に対抗しよう、という考えです。
もともと、日本では西洋の植民地政策に対抗しようという意図から明治革命が行われました。
その流れの中から、福岡藩の藩士の息子、頭山満という人が現れました。
福岡藩は維新前に藩内で維新派と佐幕派が割れており、最後まで佐幕派だった会津などのように悲惨なことにはなりませんでしたが、藩内の佐幕派藩士は処刑されて力を失い、かつ維新派の中では末席に置かれることになりました。
そこで近場の西郷さんの力に寄ろうとするのですが、今度は西南の役で西郷さんの威光も消えてしまいます。
そう言った中で頭山満は立ち上がり、日本のみならずアジア諸国の力を合わせて西洋の侵略に対抗するための活動を指揮してゆきます。
明治から始まったこの大亜細亜主義運動は第二次大戦終了まで続きます。
頭山満の力は強く、中国は孫文の辛亥革命を後援し、フィリピンの革命ではアギナルド公を、インドでも革命家のボースを支援します。
この、同時期に起こった西洋との軋轢がすべて私たちの行っている武術や東洋的伝統に直結しています。
辛亥革命においてどれだけの中国武術家の伝説が生まれたことか。
フィリピンの革命ではアルニスがその真価を西洋社会に思い知らせて、いまに至るまで世界中の軍隊がフィリピン武術を取り入れようとしています。
そしてインド。インドの革命家ビハリー・ボースは無抵抗主義を唱えるガンジーとは折り合いが悪く、あくまでも武力による抵抗活動を続けていました。
テロリストとしてイギリス政府に追われたボースは亡命、日本に潜伏します。
そんな彼を助けたのが頭山満と孫文だと言います。
アジアの協力と自立を志した彼らはともに力を合わせて大亜細亜運動を展開してゆきます。
ボースは新宿の洋食屋さん、中村屋さんにかくまわれてそのまま娘さんと縁あって婿入りしてしまいます。
そんな彼が作ったのが中村屋さんのインドカレーです。
日本に本物のカレーを伝えたいという情熱が、いまもその味を遺してくれています。
自国の本物の文化を残したい。同じアジアの国に伝えて共有したいという思いは、すべてが西洋色に染まろうという世界の流れへの抵抗であったのだろうと感じます。
我々の、伝統武術を引き継いで遺したいという思いも同じ。
簡単、便利な西洋式の合理主義が広まってゆく世界の中で、代々受け継がれて来た本物の伝統を、混ぜることも曲げることもなく伝えてゆきたい。
決してただのポジション・トーク的愛国主義に陥ることなく、あくまで超国家主義の精神の元に、人類史の遺産を保存してゆけたらと思っています。
社会が生産主義に偏り、人間の心までもが道具として扱われる現代だからこそ、人が人として生きられるアジアの文化が必要とされている場面があるのではないでしょうか。
カレーが食べたくなってきました。
皆さんもカレーを食べたらアジアの心を思い出して下さい。
あと、孫文は日本に居た間に、日本の柿がとても好きになったそうです。
それから、フィリピンには……えぇと、フィリピンには、あまりおいしい物はありませんが、彼らの中には大アジア主義運動の時の日本のことを好意的に取っている人もあり、現地には日本語を由来とした「OISI]というお菓子メーカーがあります。
目先の物のことばかりでいっぱいになってしまうと忘れがちですが、食などの営みの文化はそのまま生きた歴史と言ってよいものでしょう。
運動もしかり。いまの教育では西洋体育だけが語られますが、本来の東洋の身体観とはそれらとは異なるものでした。
「古来伝わる日本武道」などという大ウソもそういった真実を隠蔽することになっています。
現代武道のうち、剣道や柔道、空手道など西洋体育の身体の遣い方の元に古武術を再構成したものがほとんどであり、東洋的な身体操作から乖離して日本人を洋化するために作られた物です。
当時流行した和魂洋才という思想の具現で在り、さらに言うなら和魂も存在せずただの西洋かぶれの日本人を大量生産するためだけの物となりました。
いわゆる体育会系、という物がこの西洋思想の日本なりの着地点でした。
ドイツの興行主義とイギリス、アメリカの資本主義の結果です。
そう言ったものが明治になって、武士道などという言葉で創作されて広められました。
「空手は武士道だ」などと言う言葉は歴史的に直接解釈すると噴飯ものですが、空手道という物が明治に国策でねつ造された武士道という名前の西洋思想の体現だというならこれは真実足りえます。
そういった近代の急ごしらえな文化のしわ寄せが、昨今のブラック企業やパワハラ社会と言ったひずみにすべて直結しています。
そのような物ではない、大河の流れのように雄大な命の在り方を送るライフスタイルが、アジアの身体哲学の中にはあった。
そのことを、もしカレーを食べた時に思い出していただけたら幸いです。
確かにファースト・フードやファミレス料理は美味しいし簡便です。
でも、本物の料理も美味しい。
本物の食べ物は本物の命を作る。
本物の命は本物の人間を作る。
本物の人間は本物の人生を生きる。
豪華な物や贅沢な物でなくても、本物であることは大変な価値がある。