前回に引き続き、二期メンの皆さんにフライングで功夫の練習をしています。
今回やったのは套路の使い方です。
使い方と言っても用法のことではありません。
中国武術への理解が無いとどうしても套路の使い方を用法で解釈しようとしてしまう傾向があるようですが、そうではありません。
あれは練功法と言って体を練るための物で、別にそのまま使うものではありません。
専門誌ですら「套路は使えるのか?」なんて見当違いのことを言いだすくらいなので、このことは非常に誤解されがちなことです。
この誤解の元は、おそらく日本武術や武道に練功の概念がないことに由来するのでしょう。
ある空手の老先生が「空手の型は練り方だ」と言っていましたが、それも中国武術の考えからすると間違いです。
功夫の概念がない以上、練られる物はない。
ただ回数を反復して上手になるということを練るとは言いません。
それはただの格闘技としての練習度合い、スポーツの上手さにすぎません。
本物の中国武術の功とは外見の物ではないのです。
単なる運動能力でもない。
内側に働いている力の精度のことを言っています。
見よう見まねの現代武道や創作格技の人達で、寸勁などと称して瓦や板の前に拳をセットして、一回身体ごと腕を大きく引いてから思い切り肘の屈伸力と体重で試割りをしている人がいますが、それこそがまさにただのスポーツ的な運動力。そこには何一つ功夫はありません。
そういう表層的なことをする表層的な人間たちが古典の言葉を剽窃するので、本物が貶められて誤解されてしまう。
ある中国武術の先生は「そういう連中は乞食だ」と言っていました。
人の物をかすめ取ったり食べかすを拾い集める人生を送っているということです。
ベトナムのホームレスなどはフランス植民地だった影響で食べ物がおいしいため、まずい物は食べないグルメだなどと言いますが、まぁそれはそれ。
正統な手段で正統に対価を支払って本物を手渡された人間と偽物はどうしても違いが出ます。
本当に套路を使うには、幾段階にも意識を働かせてしっかりと体内の勁を鍛え、気を育てるための手ほどきを受けなければなりません。
今回のうちの二期メンの皆さんも、これまでやっていた套路でも、きちんと説明を受けて行うとそれまでとはまったくやることが変わることを体感されていました。
中には「すごく精密な動きですね」という感想を持たれた方もいらっしゃいましたが、その通り。
見よう見まねで生まれたままの自分の力を適当に振り回すなどと言ったこととは当然違います。
正しい行い方を知った生徒さんは「これを作った人は天才だ」と嘆息していましたが、それは私の師父が毎度口にする言葉です。
誰でも出来て必ず出来るようになる。というのがその意です。
理解させて使えるように育てる明確なカリキュラムがあり、なおそれは見た目だけではまるで理解の出来ないものとなっています。
それは蔡李佛が、家伝系の武術ではなくて外弟子に継承させることを目的に作られた少林武術の裔であり、革命組織の闘士を一定期間で本職の軍人と戦えるように育て上げるための物であったからではないかと思われます。
明確に人間の体を作り変えて、内功で生きる生物に生まれ変わらせてしまう。
換骨の思想がそこには明確に息づいています。