ラジオを聴く目的には、海外情勢の入手、国政のアナライズ、いろいろな分野のプロの興味深い話から学ぶ、などがありますが、よりオンタイム性が高い物には交通情報と天気の情報があります。
この二つはより地域性が強くなるため、必然地元FMが役に立つことになります。
そのような地元情報の中で、普段使っているような電車が止まると言うニュースは、実際的な交通のことに関してのみならず、世間の人心の在り方についても感じる部分の大きなトピックとなります。
先日も地元の鉄道で、線路に人が入り込んだために電車が止まったというニュースを耳にしたのですが、後日その時の映像をテレビで目にする機会がありました。
そこでは、停止している電車の車輪の脇に寝転んだ男性が大声で「殺される! 警察に殺されるんだ! 無線で監視されてる! 殺される! 辞めてください!」と連呼している姿が映っていました。
殺される、警官(体制)は敵、無線や電波と言った定番の文言に、正直もっとも強く感じたのはその凡庸さです。
以前に犯罪者に接する仕事をしていた時に、犯罪者というのは見かけはそれぞれ違うけど、事情聴取してみれば中身はみんな同じだと言うことを教えられたことがあります。いわゆるプロファイリングの発想ですね。
確かに彼らが言うことや取る態度はほぼほぼ一様です。中にはどいつもこいつもハンコで押したみたいにおんなじ顔してるという先輩もいました。
そういうベテランからすると、もう一目見ただけでこいつは犯罪者だと分かるそうです。元神の働きもあるのでしょう。
実際私も、同様の感覚で瞬時に犯行者を見つけたことが何度かあります。
このような補足側の神の働きと対称的に、犯罪者や気の触れた人というのは類型的になってゆく。
これは、道を踏み外したりバランスを取り損ねたという意味で、人格の個性化を保てていないからなのかもしれません。
今回テレビで観た人の、殺されると言って電車の車輪の下に潜り込もうとして返って危険な状態に向かうところとか、警察に殺されると言ってわざわざ警察を呼び寄せるような大ごとを引き起こしていることなどの因果の把握が出来ていないところなども、狂気を発したことで直接的な感覚に振り回される状態になり、本来あったはずの人格が類型化された着地点に落下した結果であるように感じました。
もし少しでも自分の頭と心で考える余地があれば、そのような自分にとって不都合なことはしないことでしょう。
美しい狂気は存在するかという文学的テーゼがありますが、個人的にはその可能性は極めて低いように思います。
狂気に取り込まれるということは、物事の価値基準が狂ってしまっているようなので一見英雄的なことや自己犠牲的な愛などが起きえるように思うのですが、その思考レベルはすでに著しく低下していて、中心には利己主義しかなくなってしまっているので、結果としてはまるで現代日本社会の歪みをカリカチュアしたような凡庸な人間性にしかなりえなくなるように思っています。
狂気とは個性の反対で在り、美しい狂気などは存在しない。
あるのは誰にも理解されえない美しい正気であり、人はそれを孤高と呼ぶのではないでしょうか。
狂気を装うのがおしゃれであり、楽だと思いたがる現代日本社会の人々の姿が、私にはたまらなく退屈にしか見えません。
自分の損得にしか目がいかないからそういうことになるのではないでしょうか。
気を正すことによってしか、本当の自己は確立されないし、それが望んだ人生を歩むだけの力も養われない。
蒙昧から歩いてきて学習によって自由になれてきた私としては、そのように思う処が大変大きい次第です。
春は上気して思考が低下しやすい季節です。
お花見でパワハラやセクハラが横行して倫理の低さを露呈する行為があちこちで見られるのは、群れることが誘発する凡庸のためかもしれません。
そんなことをせずとも、一人で自分自身の心身を見つめなおす時間も風流な物ですよ。