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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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クリフ・ハンガー

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 ワンアーム・ハングが劇的に進捗しました。

 片手で鉄棒などにぶら下がるというだけのこの運動、以前は10数えるのが限界でした。

 終わった後は肩は引きちぎられそうに痛むし、指は硬直してしばらく動かせなくなります。

 でも、おなじくぶら下がる系のワークであるハンギング・レッグレイズが成長してきて、腹筋というよりも腹筋を使って指を鍛える効果が強く感じられるようになってきて、その後の指の麻痺もあまり感じなくなってきた頃から、ぶら下がられる時間が伸びてきました。

 どうにか15数えられるくらいに前回まででは伸びたのですが、今回は30、40と数えることが出来ました。

 感触からするともっと行けそうだったのですが、1セットで一気にやると負担が大きい可能性があります。

 落ちる前にやめて次のセットにトライするほうが、結果的によい訓練になります。

 制御が大切です。

 その制御、今回は以前までとはまったく違いました。

 きちんと、安定してぶら下がっている状態を維持できていられました。

 ほとんどサルが片手で枝にぶら下がってもう片手で果物でも食べている時のような感じです。

 身体の中でのぶら下がる力が安定しています。

 実は、そうなる力の使い方を一つ見つけたのです。

 それは、腹筋を使うことです。

 ハンギング・レッグレイズをしているときのように、膝を挙げるのです。

 そうすると、足から腕までの力のラインが巻き上げられるように働きます。

 これは、キャリステニクスのコーチのポール・ウェイド氏が言う処のフロント・チェーンを使っているのですが、私たち伝統門派の言葉で言うと「線」です。

 この、身体の中を通る力の線を張ったり巻き上げたりするところにポイントがあります。

 直接は指だけで全体重を抱えているのですが、その力は実はお腹や脚の力を総動員した結果となります。

 これは、このつながった力を日ごろから作っているからより有効に作用したことかもしれない。

 肩の痛みも以前よりずっと軽減されました。

 体内での力が、物理的な筋肉や骨格を保護しているのでしょう。

 これだけ持つようになったので、あとはこの状態を維持しながらゆっくり成長させてゆけば、目標である一分にも達することが出来るように感じてきました。

 そうなったら次は、片手懸垂への照準が定まります。

 懸垂や腕立て伏せは、正しく行うと全身が鍛えられるというのはよく聞くことですが、それは逆に言えば全身が繋がって鍛えられた結果行われるということです。

 ウェイト・トレーニングやボディ・ビルのように一つ一つ筋肉を分けて鍛えるタイプのトレーニングをしていると、この繋がりはあまり強くなりません。

 一つ一つの筋肉の頭が立ったきれいな身体にはなりますが、全身を協調させて働かせられるようにはなりにくい。

 健康に暮らすには後者が必要です。

 では今回、私の場合はどのようにしてこの力が養われたのかと言うと、実は失敗をしたからです。

 前の時に、無理をして力尽きて滑り落ちてしまいました。

 これは危険なことで、下手をすると脱臼をしたりしかねません。

 実際、指がとても痛かった。腱や靭帯が傷ついていたら回復には時間がかかります。あるいは、切れてしまったらもう治らないこともありえる。

 とはいえ、決して無理はしてはいけないのですが、失敗することは確実な成長に繋がってもいます。

 ベンチプレスでもいわゆるギロチンと言って、挙げたウェイトを挙げきれずに重さに負けて胸に落としてしまうことがありますが、その間、最後まで抵抗し続けることで筋力は劇的に鍛えられます。

 ギロチンを食らうと、文字通り自分の存在を押しつぶされて屈辱的だったり激しい悲憤に駆られたりしたこともありましたが、それは短期的にしか物を観ていない。

 怪我さえしていなければ、このギロチンは強烈に有効なトレーニングです。次に同じ重さに挑んだ時は、確実にコントロールできるようになっています。

 このようなトレーニングを、ネガティブ・トレーニングと言います。

 負けながらあがく過程ですさまじい成長が促されるのです。

 現代社会は、極めて愚かな成果主義が形式主義と結びついて、短絡的な人間が満ち満ちています。

 失敗をすると「お前失敗したじゃねぇか」などと大喜びで人を否定的に判断して自分のコンプレックスを慰撫したがるような人間が沢山います。

 実力がないからでしょう。

 実力の世界には「あえて失敗した」という言葉さえあります。

 練習として、何がどうなるとドボンで、どこまでは行けるのかを確かめるために、初めて挑む機械を使う時や作業の時は練習でわざと限界に挑んで失敗するのです。

 失敗は成長の過程であって、結果ではない。

 それが分かっていて、きちんと自分の実力を伸ばしてゆくという考えが前提にあるからそのように物事をとらえます。

 形式主義で、失敗さえしなければ無事物事が流れにのってお約束が働くという中流幻想の世界ではそのような考え方はしないかもしれません。ビクビクしながら形式の保持に全存在を掛けてゆくのでしょう。

 しかし、自分の力で自分を高めてゆくことしかあてになるものが無い世界では、そのようなことは言ってられません。

 自分で手ごたえを確かめて自分を強くしてゆくしかない。

 ごまかしや粉飾は必要ありません。

 懸垂で言うなら、チートをしたり器具の力を使って回数を伸ばしても意味がない。

 それではその回数を本当にこなすだけの力は当人の中に存在していない。

 だったら初めからやらなければいい。頭の中でだけ、自分は出来るんだということにしてしまっても同じです。妄想の中に逃避してそこでだけ生きていていい。

 そうではなくて、本当に強い力、健全な肉体が欲しいのなら、出来る回数だけを、自分の力でやり、時に失敗するということを繰り返してゆく。

 やればやっただけ、失敗すれば失敗しただけ身体は傷つき、そして回復して前より強くなります。

 それを避けてごまかしていれば、ごまかした肉のごまかした命にしかならない。

 本物を望むなら、本当のことをしないと。


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