アンイーヴン・プルアップを出来るようになるために、アンイーヴン・ホリゾンタル・プルを投入したということを書きました。
実は、ホリゾンタル・アンイーヴンと並行して筋量を増やすためのトレーニングも始めたのですが、結局はそちらよりもホリゾンタルの方が効果的だったのでそれだけを選択したのです。
どうも私は筋量を増やして力をつけるというのが向いていない体質のようなのです。
ベンチプレスにしても他のウェイト・トレーニングにしても、力はついても筋肉はそれほどつきませんでした。
なのでなんとなくシルエットで全体に大きくなったように見えても、上腕二頭筋などの分かりやすい筋肉がまったくかっこよくつきませんでした。
十代の頃からそうなのです。かっこいい体型の仲間たちがうらやましかったこと。
これは、筋力と筋量の違いを如実に示しています。
筋量というのはまさに大きな筋肉が付いているという肉の量のことです。その多量の肉に見合った力を発揮できます。
対して筋力が付いているというのは、筋肉の量に対して強い力を発揮できるということです。
筋量1に対して1の力が出せるのが普通だとすれば、筋力が強いと1の筋量で1.5や2の力が出せます。
ならば両方鍛えれば四倍の威力ではないですか。と思うのですが、それはとても難しいのです。
なぜなら、結果的に鍛えれた成果が筋力と筋量、どちらに振り分けられるか、ということだからです。
なので私のタイプは、大した見かけでもなくただ力だけがついてゆきます。
同じ力が出るんなら見かけもかっこいいほうが良かった。
しかし、東アジアの伝統体育による体の内側の鍛え方は、えてしてこちらになってゆくのです。
これは、成長ホルモンが豊富で体温が高く、身体が大きくなりやすい白人種に対して小柄で骨格にも劣る黄色人種の遺伝子の特性に由来するのかもしれません。
階級制のスポーツにおける軽量級の試合においては黄色人種型の方が有利かもしれませんが、階級の無い生の闘争の場においては一見不利のように思えるかもしれません。
しかし実は決してそうではないということが歴史的に証明されています。
ユーラシア大陸を席捲したモンゴルを始めとする騎馬民族が、歴史上ヨーロッパにおいてなんども大勝をしているのはなぜでしょうか。
それは、馬に乗ると言うことを考えたときに、同じ力が出せるなら身体が小さい方が良いと言うことではないでしょうか。
また、食料問題に関しても、比較的代謝が低く小柄な黄色人種は少量の兵糧で戦うことが出来ます。
海戦においても、多量の人員を船に積めるなど、存外に小兵の利点は大きい。
結局のところ弓や鋭器による威力で致命傷を与えあうなら、身体の大きさはさほどに関係がないのかもしれません。
巨漢が撃っても小兵が撃っても、別に威力は変わらないないですものね。
日本国内でも、合戦の時には巨漢の力士は荷物運びとして参加しており、実際の戦闘要員ではなかったというのもこの辺りに関係があるのかもしれません。
この、筋力の大きさと言うのはどこからくるのかというと、それは神経系の発達です。
身体を動かす神経が、大きな力を発揮できるという方向に発達しているのです。
昔の人は力が強い、とか、小柄なのに腕相撲でまったく負けないようなおじいさんというのはこの神経系が発達している物であると思われます。
クライミング競技で女性が活躍しているというのも、このタイプの発達をしている女性たちが向いているということなのでしょう。
気功や中国武術などの東洋の身体開発法では、この神経系の力を発達させるメソッドが豊富です。
そもそも神経という言葉が気功に由来しています。
経というのは経脈、つまり体内の気が通るラインのことです。
神というのは気の一種で、数種類ある体内の気の内の、意識をつかさどる上位の気であるとされています。
その気が通るから神経。
気功がこれを鍛えるのは当然のことです。
ある武道家は、自分の超人的な威力の秘密を「火事場のバカ力と同じだ」と言ったそうですが、これは神経系の発達を意味しているのでしょう。
特定の訓練によって、一見筋肉が成長していないようでいても、威力はけた違いに出せるようになる。
もちろん、中国武術では実際はこれだけではなくて様々な方法の内側の訓練が積み重ねられているのですが、そのような練功法の無い日本武道では、神経の発達だけでも十分な極意となることは間違いがありません。
苦行、数稽古、シゴキに荒行と言った訓練が、単なる根性主義だと安直に解釈されるまでは、神経系の訓練は実に有効な物であったと思われます。
私が神経系が発達しやすくなったのにも、若いころしていた日本武術のためかもしれません。
それに加えて、中国武術の気功の訓練をすると、非常に相乗効果があって内側が育てられてゆきます。
これは神経なので、感覚の発達であると言えます。
中国武術や気功の本来の目的である、感覚を高めて人間性を向上させ、悟りへの道を本分とするというコンセプトには非常に合致した物であると頷かされる次第です。