なんでもかんでも擬人化するというのは、人間の傲慢ではないのかなあ、と感じることがあります。
荘子の教えには、万物斎同と言って、あらゆるものは同じく無機質なものであり、価値は個々の受け取り手が勝手につけているに過ぎないという考え方が中核にあります。
そして「天に仁なし」と言って、物理的な現象の積み重ねである世界の構造そのものには、なにがしか人格的な意思も存在しないという考え方になります。
気というものの思想について、人は何かとオカルト的な物を求めたくなるようです。あるいは現代社会から落ちこぼれた自分を救済する手段だと思いたいのかもしれません。
しかし、基本的には気というのは、ただのエナジー、物理的な力のことを言っているにすぎません。
熱の力も気、空気の力も気、電気、蒸気、ただの「力」の意味です。
この気の働きを当時の見解で分析したのが陰陽論であり、五行説です。
我々の武術は、この精神で物理的な力を扱う学問です。
そのための方向性としてあるのが、人間を陰陽の二つに分けること。すなわち識神と元神に分けます。
前者は後天的な学習や経験で作られた自我。後者は本来持っている資質や本能の部分です。
この元神は、人間自身の生来持っている物なので、いわば内なる自然だと考えられます。
そのため、この自然と外の自然はつながっていると考えます。
つまり、内側に自然に働いている自然の力がそこで勝手に活動しているというわけです。
意識しなくても呼吸はしていて、体内では分解や通電などの化学変化が起きています。
その自然に働く部分を、人間の自我は時に阻害します。
好き嫌いを言って栄養素を偏らせたり、快楽のために睡眠を後回しにして休息時間を減らしたり。
結果、体内時計が狂ったり、それに伴ってすべてのあるべきサイクルが崩れていきがちです。
自我が本能の働きを妨げてさらに暴走をしてゆけば、物事を自分が勝手に見たいようにでっち上げたり、自分自身をだましてありもしないものをこじつけで見出したりしはじめます。
このようなことを繰り返しているうちに、どんどん世界の真実から自我が離れてゆき、手前勝手な思い込みの世界に耽溺してゆきます。そのような人はたいてい体を悪くしています。本能による自浄作用を自ら妨げているのだから当然です。このような状態を、魔境と言います。
この部分を避けて、内側の自然の働きに身を任せて、健康と爽快な日々を送ってゆこう、というのが気功の思想です。
この気功の考え方を土台に、身体を動かしてゆこう、というのが武術です。
世の中を見渡せばどうも、不自然な生き方をしながら自分の作り出した信仰にすがりついて、どんどんすべてを悪くしてゆこうという人々が沢山いるようです。
武術においても、闇雲な努力や工夫という信仰に凝り固まって必要なやり方を学ばないで自己流に陥り、いつまで経ってもできるようにならない人がいっぱいいて苦しんでいるようです。
オカルトやスピリチュアルの妄想に迷い込んでしまって気持ちの悪い暮らしをしている人も、武術で悩んでいる人も、うちに来てくれたらなあ、と思います。
自我がまさるほど、本能は濁ります。本能の働きがよどんでゆく。
結果、ほおっておけば働く物が作用しなくなって、どんどんダメになってゆく。
私たちの武術は、自分自身を澄ませてゆくものです。
余計なことが邪魔をしないよう。
うちなる自然にまず則ることで、世界全体に働く大きな自然と同調することを習慣化してゆきます。
まぁ、素材の味だけでは物足りなくなるので、食べたい時には化学調味料や人工甘味料も使っても良いです。
ただ、アルコール中毒やニコチン中毒、ひいては薬物中毒のように、常にゴッテリと劇物まみれにしていないと日常の味が分からないというのは心身の病気です。
こういうのを「病の身」と言います。武術はそれを治すために行います。
余計な物をどんどん引いていく。
そういう物の無い状態で見ると、景色はとても美しく感じます。季節が変わるときの風や花の香りは内側を通り抜けてきて大変に気持ちがよいです。
これらは、自分の内側が虚、つまり、余計な物が詰まっていない状態だから入ってくるのです。
混沌より生じて虚無へと至る。つまり、撹拌ですね。
濁った物が沈殿して澄んだ部分が広がれば、桜の季節には、自分の中に桜が咲き広がります。
自分と世界が自然につながるのです。
余計な迷妄で自分を濁らせるのはもったいないです。
いらないものをでっち上げたりせずに、透き通った暮らしを送る。
食べ物はおいしく感じます。眠りは深く安らげます。
そのような感覚を忘れてしまっている方は多いのではないでしょうか。
一度、自分をきれいに空っぽに片づけてみると心地よくなると思いますよ。
それにね。
そうなってから時々、すごい甘いものやゴッテリした味付けの物を味わうと、ものすごーーーーーーーくおいしく感じますよ。