前回書いたハプスブルグ家のお話の後、スペインはブルボン家に継承されることになりました。
ブルボン家とハプスブルグの間で交配が行われてゆくのですが、ブルボンもまた近親交配を繰り返していたため、両家の間には障碍児や病弱な子供が沢山生まれ、多くが夭逝したと言います。
このブルボンから民衆が自由を勝ち取り、現代社会の第一歩を開いたのがフランス革命で、これまでも何度もそのことは書いてきたのでここでは割愛します。
なお、ハプスブルグ家の末裔は1961年まで、自分はボヘミア王であると主張していました。
こう書くと、本当にこの王家の歴史が身近な物に感じられたのではないでしょうか。
お話をようやく20世紀にまで持ってくることが出来ました。
ここで、最近観た映画の話をさせてください。
映画館の予告で観た部分以外に前情報なしで行った作品なのですが、これが素晴らしかった。
私の人生でのランキングに残る作品となりました。
ここからネタバレが入りますので、もしそういうのが気になる方は随時撤退されてください。
その映画では、十歳の少年がイマジナリー・フレンドを持っています。
これは空想上の友達と言って、幼少期には持つ子が割と多いようで、本人の想像の中だけに存在していて会話をしたり一緒に遊んだりする相手のことだそうです。
昔の怪奇小説の「赤毛のハリー」はこれを描いていましたし、ここでおなじみの「ジョジョの奇妙な冒険」やおそらくはそこに影響を与えたのだろう「シャイニング」ではこれを疑似人格的な超能力として描いています。
私が感動した映画では、主人公の少年はアドルフ・ヒトラーをこれにしています。
彼にとってのアイドルがヒトラーで、主人公は彼をアイドルとして観ているのです。
彼の家では父親は家を出て行っており、姉は亡くなっていることから、いつもいてくれる友達でいてくれながら父親の役割を持ってくれる存在が欲しかったのでしょう。
これが個人が心のよりどころとして持つ幻想の典型と言えましょうが、ヒトラーに幻想を見ていたのは彼だけではありません。
ナチス・ドイツの時代の国民の多くは彼のもたらす幻想の元に生きました。
そのことを、愚かしく思うのは簡単です。
また、この日本で現在在職中の国会議員のある人をしてヒトラーになぞらえる人もいるでしょう。
しかし、それもまた実は幻想です。個人が勝手に作った思い込みです。
大戦後「ドイツ人はバカで残酷でナチだ」という幻想が広まり、差別の元となりましたが、それと同じ種類の幻想です。
決して、ドイツの人々がバカで残酷だからナチ党が国民の強烈な支持を得たわけではありません。
以前にも少し触れた通り、第一次大戦の敗戦とそれに続く世界恐慌で貧困化したドイツにおいて、ヒトラーはアウトバーンの建設をして雇用を確保、さらに費用の40パーセント以上を労働者への支払いにあてるという善政を敷きました。
さらにはその道路を走る車の生産に力をいれて現在にも続くドイツ車のブランドを確立しました。
ドイツ工業主義です。
しかも、その折に労働時間は八時間と言う世界基準を設定しました。
長時間労働を行うブラック企業が違法だと訴えられるのは、ヒトラーの判断に準拠しています。
経済だけではただの商人に過ぎないと言えるかもしれません。
私が本当に恐ろしいと思うのはそれ以外の部分です。
ヒトラーは、当時強国による強権を振るっていた国連からの脱退を敢行し、さらには当時国連が支配していたラインラント、ズデーデンという地方を無血占領し、オーストリア市民からの支持を受けてオーストリア本国も合併しました。
国連側としてフランスやイギリスは当然それを許さず交戦も辞さないはずだったのですが、吸収された現地の人々が国連に支配されているよりもドイツに入りたいという意思を持っていたために、一切の軍事介入は起こりませんでした。
これにより、ヒトラーは分割統治されていたドイツ語圏の回復に成功したのです。
ここまでの活躍を一気に執り行った政治家を、信頼するなと言うほうが難しいでしょう。
これは決して現存の日本の政治家に当てはまる活躍ではありません。
これらの実績、既成事実という現実を土台にして、ナチ党の凶行が始まります。
悪名高い選民主義、すなわちユダヤ人差別や劣性遺伝子排除法が始まる訳です。
私の観た映画の主人公の少年は、これらの末期の時代、ヒトラー・ユーゲントの時代に生きています。
「活動に子供を引っ張り出してくる奴らはも終わりだ」とある学者先生が行ったように、子供をナチの親衛隊に仕立て上げようというこの活動は、ナチがもう連合軍によって全方向包囲されてしまい、じり貧となっている状態のお話です。
主人公の熱烈ヒトラーファンの男の子は張り切って訓練キャンプに参加しますが、そこで実際に命を奪うと言うことや危険な兵器を扱うということに面して叩きのめされます。
挙句のはてにはええかっこしようとして調子に乗って投げた手りゅう弾で自爆して入院する羽目になります。
こうしてナチの落ちこぼれとなった男の子を取り残して、時代は物凄い勢いで進んでゆきます。
初めはユダヤ人は悪魔の子孫でユダヤ帽の下には角が生えているなどと言っていた大人たちですが、ソ連の脅威が強まってくるにつれてユダヤ人なんかどうでもよくて切迫しているソ連人の方に意識が向かってゆきます。
しかし、十歳の男の子にとっては、角が生えていて体にはうろこがあるというユダヤ人の方が興味深いのです。
私たちが同じ年の頃に妖怪やドラゴン、UMAなどに惹かれたように、彼はユダヤ人に興味津々で自分で研究を始めます。
この、幻想に次ぐ幻想の橋渡し。
十歳の男の子のファンタジックな幻想と、ナチシンパの幻想はここに至ってほぼ同然の物だったのではないかと俎上に載せられるわけです。
この、幻想に狂った世の中で、男の子の周りには印象的な三人が居てくれています。
一人はお友達のヨーキー君というでぶっちょの男の子で、主人公よりも小さくてどんくさい子なのですが正しい目を持っています。
彼は無事(?)ヒトラーユーゲントとして戦線に立っているのですが、それを経て主人公に「連合軍に取り囲まれてるしアメリカも参加したしソ連も攻めてくる、味方は日本人だけだけど彼らはあまりアーリア人ぽくないし、ぼくたちどうも間違ってたみたいだ」と素直な心で現実を認識します。
二人目はヒトラーユーゲントの教官だった大尉、通称キャプテンKです。
戦場で負傷してこの名誉職に左遷されたのですが、いつもアルコールを飲んでて、ちょっとホモっぽい感じもあったり、愚痴が多い、崩れた感じのおじさんです。
彼は主人公が訓練キャンプで自分を吹き飛ばしたせいでさらに降格されて士気高揚のために間抜けなヒーロースーツを着る道化の仕事に就くことになるのですが、これってキャプテン・アメリカのパロディなんですよね。ちゃんとバッキーも出てくる。
なぜ彼がいつもダラダラしていたのか、仕事中もお酒を飲んでいたのか、それは彼が正気だったからだということが分かってきます。
世の中みんなが幻想に酔ってしまっておかしくなっているから、そこで生きるためには彼も酔って道化になる他はなかった。
そんな彼が正気であることを垣間見せるシーンは本当に涙が出ました。
三人目の人物は、主人公の母親です。
これを演じているのはスカーレット・ヨハンセン。
ブラック・ウィドウですよ。
キャプテン・アメリカに続いてブラック・ウィドウも登場!
彼女がまた、本当にブラック・ウィドウ的な大活躍をしながら、かつ実に可愛い!
おっと、大活躍と言っても決して始終アクションを披露するという意味ではありません。
生き方としての戦い方を見せてくれるのです。
彼女の生き方がこの映画の訴えていることです。
目に映る、ハデハデしく喧伝された幻想に囚われていた主人公は、身の回りにた本当のヒーローたちの存在に気付いたときに、幻のヒトラーをお払い箱にします。
幻想はあまりにも簡単に人を酔わせ、幸せを錯覚させながら、現実に気づかせないようにしてしまう。
最後の部分さえなければよいカンフル剤なのですが、得てしてあまりにも劇性が強い。
次回はこの幻想が、どのように戦後日本社会に行き渡っていたかを述べたいと思います。
つづく