前回までのお話のさらに続きをいきたいと思います。
前回では、大切なのは動きでは無くて重心を集める定力を自分の内側に作ることであり、拙力による技ではなくて練功によって体に宿った術だと書きました。
そういえば、手偏に出ると書いて拙と読みますね。まさに自分自身から出る力が拙力であるということを彷彿させます。
この拙力をいかに使わないか、どれだけ消せるかが大切なことです。
手首発勁、肩甲骨発勁、体重浴びせ発勁のほかに、肘発勁というのもあります。
これも、屈曲させた肘に力をためておいて一気に瞬発させる方法です。
手首、肘、肩甲骨と、三つの関節の屈伸を連動させる派もあります。
これらはうちの発勁とままったく違います。屈伸はうねりです。
これらのやり方がベーシックだとすると、靠が打てない。
関節が屈伸しないところで発勁ができないことになってしまいます。
となると、法則的には屈伸派なら膝関節でも使うのでしょうが、そういうことを我々は嫌うのです。もちろん背骨も使いません。
拙力を原理主義的に忌避するのです。
我々の勁力の意図が根本的になんであるかということを、一言で言うなら、それは全身を一つにつなぐことです。
勁とは動く力では無く、止める力です。それも、全身をパイプのように形成してとどめる力です。
勁力で全身を強固な砲台にすると考えればいいのかもしれません。これも誤解を招きやすそうな表現ですが、一般に誤解されているのとは違って、勁は弾ではないということが言いたいのです。
抜骨して正しい姿勢を作り、それを勁でしっかりと補強して固定します。
この固定こそが勁の目的です。
なので、決して鉄線功を学ぶ皆さんは勁力を打ち出そうとして力感を感じようとどこかを詰めたり体をうねらせたりしないように気を付けなければなりません。それは拙力です。自分が出している力です。野球のような代表的なスポーツで行っている力は勁とは言わないのです。
そのような一般的な体の用法と区別するために、勁という言葉があるのですから、スポーツや格闘技と混同をするほどに真実からは遠ざかります。
では、体を筒として固定するのが勁だとして、打ち出すのはなんでしょうか? 一体何を弾に使えばよいのでしょう?
それは、反作用です。
前の記事で、ローラースケートの例えを出しました。
それで思い切り加速してぶつかってゆけば、同じくらいの体格までの相手なら轢けるかもしれないと。
しかし、それで思い切り壁にぶつかったらどうなるでしょう?
ダメージを受けるのはローラースケートに乗った方です。一般にそういう現象を事故と言います。
勁という言葉を訓読みすると「つよい」となります。
中国語には色々なニュアンスのつよいがあり、それぞれに字が違います。強、豪などが日本人にも身近なつよいでしょう。
その中で勁とは、植物のような根の張った、弾力のあるつよさのことだそうです。
石のような砕ける強さではないのです。
柔らかさのある鉄の強さは、勁の語にふさわしいと思います。
ですので、ローラースケートがぶつかるのは壁ではなくて地面深くまで突き刺さった鉄柱だと想像してみましょうか。
思い切りローラースケートで加速してそこぶつかるのと、その速度でこの鉄柱にぶん殴られるのは、理論的には同じダメージですね。確かこれを作用反作用の法則と言ったはずです。
だいぶ話が遠回りをしてしまいましたが、これが我々の鉄線の発勁です。
地面の下まで深く突き刺さっている部分の強さが定力です。
この定力を、足から腕の先まで(できれば頭の先まで)一貫して通して繋げると、これが鉄の強さが腺となってつながった状態、鉄線功の利いた状態になります。
最初の記事に書いたように、鉄線功は繋がったまま曲がることができますので、全身繋がったまま変形して相手を打つことができます。
その衝突の時、打った方と打たれた方には作用と反作用が働きます。
この時、基本、比率はフィフティーフィフティーのはずですね。確か。
しかし、根の張った定力がある方は、自分に受けた反作用でぶれることがありません。
そうすると、体を通った反作用は地面で跳ね返ってまた相手へと帰ります。
これによって、相手だけが作用の分+反作用分の威力を受けることになるのです。
こう書くとなんだかいったん行って戻ってなんて感じで遅い感じがしますが、実際にはそんな感じはないです。
タガネをものすごく固くて重い物に当てておいてハンマーで打てば、その固くて重い物と一体化したタガネに一瞬でハンマーは跳ね返されますよね。それと同じじょうたいです。
我々の勁力は自分をこのタガネにするためのものなのです。
また別の角度からいうなら、地面と自分をつないで一体化させるためのものです。
この定力=鉄線功の、勁力純化主義こそが我々の根幹です。
ここに働いている相手を打つ力は拙力ではありません。まさに自然科学の力、物理の力です。
このような力=エネルギーを、古い中国の言葉では気と言いました。
蒸気、電気、爆鳴気。磁力、電力、火力、摩擦力、あらゆる力を気と言います。それらの力を五種類に分類するところから五行説が生まれました。
決してオカルティックな意味での「気」ではありません。
これらの自然に働く力=気が、他力です。
なので、我々は勁をまとって身を筒にして、そこに他力を通して打つのです。
この時の、自然に働く力と一体になった状態が自然と自分が協調した状態であり、稽古の目的そのものなのです。
拙力を用いれば用いるほどこの状態から離れてゆき、わがままな自我を振り回しているだけの状態になってゆきます。
そこには限界があります。そうではなく、力は自分自身を抑制するためだけに用い、そのためにかえって自然と一体になって大きな力の一部になれる、という真実を体現するために、私たちの武術はあるのです。
だからこそ私は、この素晴らしい体験をより多くの人と分かち合えればよいと思って常々武術を公開しているのです。