経済への影響を考えたのか、非常事態宣言の限定的解除が始まるようですね。
博多、名古屋などの大きな地方都市を除く部分においての解除が具体的には考えられているようです。
私の住んでいる横浜や、よく行く都内は引き続き外出自粛が継続しますが、関東ですと茨城の解除が予想されています。
なるほどな。と思いました。
ここから見えてくるものがたくさんあります。
が、それをお話しする前に繰り返しておきます。
これから書くことはあくまで私個人の見解であるということです。
まず、首都圏、および地方の大都市を中心に現状を継続し、それ以外の経済を活動支えるということは、必然地方収益に国が依存するということになります。
となると、各地方にこれまでなかったほどの経済活動資本が投下されて、それぞれの力が増してゆきます。
以前に書いた地方の独立自治制が高まるということもより強くなることでしょう。
これ、実はおそらくニューノーマルの特徴なのです。
ニューノーマルというのは、元々はITバブルのころの世界の変化を想定して言われた言葉だそうです。
古くはルネッサンスや産業革命がありました。
我々の時代ですと冷戦下でフランシス・フクヤマによりガイドされた「歴史の終わり」や、アルビン・トフラーの「パワー・シフト」「第三の波」のような世界的な歴史の流れのアナライズがありました。
近年の、トロッコ問答で有名な「新しい正義の話をしよう」も同等の本であると思われます。
そして、この本こそが、ニューノーマルの指針そのものであるように思っています。
もともと、資本主義という物がどうしても世界情勢上の格差によってなりたつ以上、常に西側諸国は世界戦略、今後百年単位での世界のデザインの方法を計算しています。
これからの世界がどうなるか、もっと言うと「どのようにするか」によって資本主義経済という資源が回るようにしているはずだからです。
そして、具体としてのニュー・ノーマルはこの戦略による想定と運動そのものであると思われるのです。
そのための青写真は、もう十年ほど前から作られていたようです。
これ、キリスト教圏におけるピース・コントロールの学問である「平和学」という学問の視点が密接に関連しているそうですので、やはりどうしても資本主義の本場が支度した形になっているとは思われます。
そのようにしてしつらえられたこの計画は、いつ発動させるかという時期を待っていました。
世界を一気に塗り替え始めるチャンスというのは、よく伺わないとならないものなのでしょう。
一般に、一世代に一度は世界的な危機があると言われています。
今回の状態はまさにそれです。
ですので西欧諸国が「これは新たな世界大戦だ」「世界大戦並みの危機だ」と明言し始めたとき、このニュー・ノーマルの発動は始まったと想定されます。
考えてみれば、いきなり危機を認識してろくに面会して会議も開けないような状態になってから、いまの動きが作れるかというとちょっと疑わしいでしょう。
はじめから、こういうことが起きたらもう進めるための計画が備えてあったのだと思われるのです。
そして、そのキーワードの一つが「小さな国家」であり、また地方自治の強化であると思われるのです。
フィリピンのドゥテルテ大統領は、以前から地方分権性を訴えていました。
いまさら百年前に貴族がやっていた地方領主制にするのかと思うと、非常に彼らしくないのですが、それもまたニュー・ノーマルの計画に乗っ取った物であると考えると納得がいきます。
今回の地方からの緊急事態制限解除というのは、この文脈に乗っ取った物だと思われます。
これに関して、真っ先にアナウンスされているのが「緊急事態宣言下の都市から解除の都市への移動の自粛要請」でした。
正直、初めにこれを聞いた時には「おいおいそんなの自粛でいいのかよ」と思いました。
だって、絶対みんな自由に活動できる都市に移動するでしょ。
経済的に苦しい人いっぱいいるんだし。
その視点に至って見えてきたものがありました。
私は、いままでそこがまったく見えていなかった。まだまだ非常に物が見えていないと思い知らされ巻いた。
それは、この「自粛」という言葉のもつポピュリズムです。
私は「自粛警察みたいな大衆はニュー・ノーマルの時代にはおいて行かれる」と思い、それについて賢らしく書いていたのですが、ここに前時代のポピュリズムの底力の存在がありました。
この週末になって、一斉に吹き上がったかのような自粛警察揶揄の報道をいくつか目にしました。
しかし、これこそが政治の力だったのです。
「暗い夜道にゃ気を付けるんだな」という古い脅し文句があります。
これ、決して注意をしてあげている訳ではありませんね。文章はそうでも、実際は脅かしている訳です。
それと同じで、自粛警察の報道もまた、これは一つの威圧効果が計算されていたのではないでしょうか。
帰省者への嫌がらせや他県ナンバー狩りのようなことを広く報道することで、地方の緊急事態宣言を解いたときに流れる避難民を牽制していたのではないかと思われます。
この手口は、まさに戦前からの日本の得意とするものでした。
直接官の手を下さず、民心をあおって協力的でないものを弾圧させる。
その責任はもちろん持たなくて済みます。
予算も割かなくてよい。
これが政治だということなのではないでしょうか。
そして、こうなった後はいったいどうなるでしょうか?
これまでの歴史を見るに、切り捨てです。
すでに発表されているニュー・ノーマル下での経済活動は、競争ではなく協力が軸となっていることがうかがえます。
これまでのような競争主義では環境や人命が消耗してゆくためです。
実際、ツイッター社では希望者の永久的なリモートワークが発表されました。
また日本での外出自粛以降の自殺率は劇的に下がっている発表もありました。
これこそがニュー・ノーマルの世界をうかがわせる序章なのではないでしょうか。
これまでは、ポピュリズムを活用して大衆同士を争わせてその利を国が吸い上げるとい制度でした。
しかし、これを明確に変えようとしている動きがうかがえます。
いわゆる就職氷河期、ロスト・ジェネレーションといわれる私たちは、今回の国の各方面への救済措置に関して「え、国ってそんなことしてくれるの?」という思いがあります。
「だって、私たちの時は生きる能力のないやつらは勝手に死ねっていう制度だったじゃん」とうい感じです。
これでは成り立たないというので、違う方針にシフトしようとしているように思えるのです。
その一つが現在撤回されたゆとり教育なのでしょう。
これまでの、企業を活かして小の犠牲を払ってゆくという形が変わろうとしていると思えます。
フリーランスに対する救済の手が早い段階から着手されているのも又、その反映であるように見えます。
これまでだったら、フリーランスなんてそれこそ「自己責任」の一言で片づけられていたような気がします。
これからの方法は、「小さい単位」と「協力」であるのではないかと私は見ています。
そうなると、では小さい単位として社会に参画出来ない人たちはどうなるのでしょうか?
私の勝手な表現なのですが、ここで「市民」と「大衆」が分断される気がするのです。
個として社会に参画できるのが市民です。
これまで主として使われてきた「大衆」はどうなるでしょう。
これね、過去を振り返るに「切り捨て」だと思うのです。
まさに戦前に、煽られて自警団化して非国民への弾圧を自主的にしてきた「大衆」がどうなったでしょうか。
また、戦地においてそのように使われてきた被徴兵者は?
これまでと違って、そのような「群れ」はちょっと割りを食う世の中になるように思います。
これは、ブロードバンド化やそれにともなう国境意識の変化などを鑑みたときに、ITの発達がニュー・ノーマルであったことを思えば想像がつくことです。
これまでは日本の社会では、終身雇用が前提であり、軍隊式精神主義、つまりポピュリズム的自警団制度において死ぬまで働く社員という弾圧制度によって国益が挙げられてきました。
それが、近年徐々に労働時間の管理が厳しくなり、またハラスメント問題も厳しくなってきています。
そして、リモートワークの主体化と自殺率の低下という結果です。
集団の中でうまく立ち振る舞うことが処世術だという人たちには、生きやすい世の中ではなくなるということではないでしょうか。
だって、もう引っ張る足が手の届くところから遠ざかってゆくのです。
ここまで見ている感じでは、一般にいまの過渡期が落ち着くのは2022年が目安だと言う人が多い。
これは、医療的にも政治的にもです。
そうなった時に、長い外界との遮断を経て因習を薄れさせた社会は、ニュー・ノーマル化の方へ進んでゆくだろうという意見が非常に目につきます。
治療薬の解禁が始まっていますが、まだ効果のほどは明確ではありません。
それらの薬に関しても、いまの状態が始まってから開発されたものではありません。
その前から作られていたものが解禁されただけです。
もうずっと前から、すでにいろいろなことは想定されて支度がされていた。
ワクチンがもし運よく突発的に開発されたとしても、それがみんなの手に届くまでにかかる物理的な時間はやはり二年ほどだと言われています。
古い秩序の破壊と、新しい世界の構築がすでに始まっています。
我々個々人がようやく自由に動けるようになった二年後、これまでの社会と同じことをしようとして出て行った人々は果たしてどうでしょう?
ただ、歳をとり、感覚がなまったまま同じことをしようとした人たちは?
私はそのようになるつもりはまったくありません(まぁ、生きていたらの話ですが)。
それまでの間に、一層自分を高め、力をつけている予定です。
学び、理解し、出来るようになっていようと思います。