君主制や民主制と言った政治体系の問題が、一人一人の心の悪の部分と繋がっている、ということを前回は書いて終わりました。
では、それがなぜかと言うことを書いてゆきましょう。
それには、君主制を打倒して民主制を拓いた思想家、ルソーの考えを見ることがポイントとなります。
このルソー、なぜ君主制を辞めて民主制を敷くべきだと考えたのでしょうか。
それは、君主と言うのが一人一人の人間の自由を阻害しているからです。
だから、一人一人が自分の自由を持って、責任を抱いて生きることが出来る世の中がいいじゃないかと言うことで民主制を支持した訳ですね。
そうなれば、髭を生やしているからとか家に窓の数が多いからという理由でいきなり役人に金をとられることもないし、気に食わないという理由で死刑にされたりもしません。
逆に言うと、君主制の精神をもって生きている日本人の理想の生き方って、そういうことが出来る上の立場に立つことですよね。多くの場合。
倫理や論理ではなくて、他人に理不尽を振るえる立場が良い物だと本気で欲求してる人が恐ろしく沢山いる。
大変残念な有様です。
民主制においては、そのような考えを持つ個人は同じ個人である別の人によって非難され、民主主義の敵であり制度の維持そのものにかかわるとみなされる。
そしてなお、その卑しさを軽蔑されながら、そのままでいる自由が確保される。
直接的な処罰を志向した瞬間から、それは君主制の考え方に退行します。
つまり、民主制を支えているのは精神の公正さでしかありえないのではないかと私などは思ってしまう。
そして、だから日本人にはまだまだそれは早すぎると思ってしまう。
しかしまぁ、ルソー先生はこの革新的な思想を現実のものとして世に送り出した訳ですね。
すると、それまで想像していなかったであろう恐ろしいことが起きます。
支配を離れて各人が自分の責任の元全て自由だ、となった時に、やはりこれについていけない人たちが続出してしまうのです。
自由って言ったって何をしていいのかわからない、という人達です。
「これからの正義の話をしよう」をヒーロー映画としてかみ砕いて脚色したようなな映画「アヴェンジャーズ」シリーズの一作目では、宇宙から飛来したドイツの悪神、ロキが言います。
「君たちを自由から解放しに来た」
これ、神様が言っているということがとても重要であるように感じます。
君主制と言うのは、神の支配の代行なんですね、そもそも。
だから王権神授説という物があるのですし、戦前まで日本も神の国を題目とした帝国でした。
キリスト教でも、神様のことを「ロード」、つまり君主と言います。
キリストの再臨は「キングダム・カム」王国の訪れと呼ばれます。
完璧なロードによる完全な王国を待ち望んでいるのです。
これが信仰です。
その信仰とは違う形で現世を生きる思想のことを「哲学」と言います。
だからこそ、民主主義の先進国であるフランスでは哲学が学問の必須科目となっている訳です。
哲学を持たない、つまり、平たく言うなら物を考える力がない人が自由の中にほっぽり出されたら?
それは恐ろしく辛いことになるのでしょう。
哲学を持たない人々にとっての理想の生き方とは、自分に都合のよい支配の敷かれた世界です。
そしてそれを望むことこそが、悪の根元ではないでしょうか。
つづく