もう十か月くらい、対面レッスンをしていません。
おそらくはもう二年ほどしないのではないかと思います。
そのことは当然寂しいことであり、望みうるなら誰かに私が学んできた拳を伝えたいという想いがあります。
不可能なのでいまは自分が学ぶ日々なのですが、日々練拳し、ユーチューブなどを見ていると感じたことがありました。
私は、功夫に関してだいぶ解明しているな、ということです。
これは当たり前のことのようですが、実は当たり前ではありません。
ある有名な日本人中国武術家が解説をしているDVDを観て、老師が「彼は分かってない」と言ったことがありました。
これは日本人にはありがちなのですが、自分がやっていない武術をいくらか見て真似をしたうえで開設するということをその先生がしていたことに対してです。
私の老師は、その武術を私に教えてくださっていて、その武術の本場の出身の方です。
当然、やっても居ない先生とは見識が明らかに違う。
日本を含めた世界中での中国武術のレベルを観ると、このように「わかっていない」先生が非常に多いのではないかという思いが大変に強くなります。
ほとんどが、空手やキックボクシングのような自己流の延長で中国武術を解釈しているだけの素人研究家のような人が大変に多く目に付きます。
その中で、私は環境に恵まれて、たぶんだいぶ分かっている。
もちろん、段階と言う物はあります。
私が分かっていない段階は多々あるでしょうし、分かりえない段階も途方もなくあることでしょう。
特に、点穴などに関しては終生理解できる気がしません。
ですが、それはあくまで段階としてとても高いところにある訳ではないというだけで、間違っているということではない。
ちゃんと正しく本当のことを与えていただいて、それを明確に理解してここまでこれています。
なのでこれを誰にでもわけることが出来ます。
うちに来てくれた人は全員出来るようになっています。
これは、珍しいことなのだろうと改めて思いました。
運動神経や年齢は関係ありません。
ただ、一つだけ必要な物があります。
それはいわば「心の技術」のような物です。
動揺した時、何かに囚われた時、それを自覚してすっとその状態から退くことが出来ること。
これは性格と言うよりは、技術であると私は思っています。
禅の技術であり、言い換えれば気功の技術です。
ある一定の人たちは、心の中に「セーフ・ゾーン」と言う物を持って生まれてくることがあるそうです。
そこに精神を置こうとすると、外界のことが一切遮断されて何も感じなくなる。
これを後天的に無理に作ろうとすると人格に疾患を抱えてしまうことがあるそうなのですが、完全な外界からの隔離ではないにしても意図的に事象と距離を取ることは訓練によって可能なはずです。
私が恵まれていたのは、師父が練習の半分を気功の瞑想に当ててくれたことであり、老師が禅の教室を開いている方であったことです。
大師もまた、幼少時に僧から瞑想を学んだことがきっかけに気功の大家への道に進まれたと本にあります。
そのようなアプローチで武術を教えてくれる師が居るか否か、それが正しく中国武術と言う概念を理解できるかどうかの一線であるように思います。
ただただパンチやキックの練習だ、護身術だ、というようなことをしていると……そこには中核の足りない物が出来てしまうように思っています。
このことはほぼまったく正しく理解されていない気がします。
みんなカンフー映画に影響を受けて始めるのに、映画の中のメッセージをまったく受け取っていない。
私の所に来てくれる皆さんも、初めはこの理解は無くても良いのです。
私自身もそうでした。
ただ、そういう物だと言われてそれを学んだ後、そういった精神と神経の技術、すなわち洗髄功などとして知られる部分を身に着けることが出来ればそれで。
とはいえ、それをきちんと理解して伝えてくれる師は、本当に少ないのかもしれないと昨今とみに強く感じています。