前の記事でアホみたいな若い女の子たちのことを書いたけど、恐らくはそういうアホな価値観っていうのは90年代以降のこの国のサブカルチャーにおいては珍しい物じゃなくなってると思うんですよね。
メンヘラ・ブームと言っていいような物が興って、いまでも下手すれば続いている。
なんちゃってメンヘラというような自称をして自分を狂人だと装うワナビーまで目にしたことがあります。
リストカット痕があるレジ係なんかもちょっと注意していると割に目にすることが多い。
以前に、そのような倒錯した自己愛はエンドルフィン欠乏症に由来する物であろうと言うレポートを引用したことがありましたが、たぶん世の中全体がそのようなニーズを作る閉塞を構築しているのだと思うのですね。
90年代以降の絶望的な社会の中で、そのようなことをしないと脳内に快楽物質が出ない、他人と比較して自分が何者かになったという感覚が得られないと言う貧乏くさい人間が非常に大量に量産されたと思うのです。
それでね、そういう人間が今度は加害者になって性犯罪を犯したりパワハラやセクハラをしたりする訳ですよ。
その被害者がまた精神を病む。
この円環が物凄く効率よく形成されていると思うのですね。
つまり、安易に得られる物に飛びつくと結局この円環に飲み込まれて率先して加担してゆくことになると言うことなのではないでしょうか。
現状で露呈している国政のあまりに露骨で拙劣な姿勢なども、結局はこの円環が社会全体に貫通した結果行われて来た効率的な制度だったのではありますまいか。
官から民に至るまで、すべてがこの負の連鎖を骨子として成立してはいないでしょうか。
いまどきのそこらの誰でもない連中がやたらに「上から目線だ」とか「マウンティングだ」とか言い出すのは、結局自分の実力で確かなことが何も出来ていないから、そのような表面上の関係の上下に拘る以外の物が人生で得られないからなのでは?
みんなで足を引っ張りあいしてそうやって上にあることに従っている。
さもしいことよ。
自分で自分の確固たる実力を作り上げていって自分を立てていれば、そんなくだらないサイクルには関わらないで生きて行けそうなものですが。
そのことを、昔の言葉で立命と言います。
命を立てる。
そうして心を安らげる。
これを安心と言います。
合わせて安心立命。
つまりは、本当に生きるってことです。
大衆に自分で物を考える力を与えず、愚民化政策を施行することで体制を安定させると言うやり方は、古代から文明社会の常套手段でした。
知能が低い人達は愛国的になりやすいというデータがありますが、そのような物を土台に体制が組まれてきているのでしょう。
古代インドのカースト制度などはまさしくこの部分を巧みに活用してきました。
そのままでは人は何にもなれない、永久に同じところで同じことを繰り返すだけだ、として本当の生を説いたというのがお釈迦様のなさったことでしょう。
愚民化社会からの脱却のために、行と学問が必要なのだと語られました。
ヨガや気功、少林拳というのは現代にまで続いているその行の部分です。
大衆化されたそれらを表象だけなぞっていてもあまり意味はないように思います。
本当の安心立命に向かってゆかないと。
いま、世の中は大きな節目を迎えています。
SDG’sにより、倫理的な生き方をすることで持続的な人類世界を作ってゆこうと言う方向に向かっています。
これまでの世の中での身の振り方が身についてしまっている人たちは、いつまでもこれまで通りの生き方をしてメンヘラだマウンティングだ言っていたいのでしょうが、そういう人たちがどんどん分断化で切り捨てられて行っています。
社会派のコメントをするお笑い芸人の方が、この間もそのことについて「そういう奴らはどんどんこれからの社会じゃ見捨てられておいてかれていくだけだからほっとけばいい」と言っていたのを耳にしたばかりです。
結局のところ世の中はシビアなので、必ず誰かが切り捨てられて下層に振り分けられます。
いまは、自ら低いふるまいをして低い存在になりたがっている人たちがどんどんそちらに組み入れられて行っていく時期だと思いますよ。
なんも悪いことしてないのに人種や性別、生まれた場所で人々が下層に振り分けられるより、全然フェアなことだと思います。
でも、それが残酷なことだと思わない訳ではありません。
自分で自分を貶めて余裕ぶっこいて気持ちよがってるような人達、早く目を覚ました方がいいと思いますよ。