これまで少林寺の縁で何度か取り上げてきた百獣の王についてなのですが、前回彼の個人的なところに踏み込んだのを機にもう書くこともあるまいと思っていた物の、また少し掠めるようなことになりました。
というのも、彼が自分と同じジャンルの発信者だと語っていたある手品師の人が、不謹慎な発言で社会的に問題を起こしていたからです。
その手品師の人と言うのは、心理学を応用したような手品の類を売りにしていた、催眠術師やエンターテインメントとしての詐術使いの類なのですが、次第に芸人としての本分から離れて、その心理学的要素でダイレクトにカモをたぐって荒稼ぎに入っていたようなのですね。
近年、あちこちの業界からこういう人が沢山出てきています。
少し前までは、間にマルチ商法などのシステムを介在させていたのですが、いまはもう動画配信とクラウド・ファンディングでより濡れ手で粟の仕事が可能なようですね。
元々人の心理の隙をついて欺くのが職業能力なので、この手のことはうってつけだろうと思っていたのですが、よりによって人心の掌握に失敗して世間から総スカンを食らってしまいました。
職業としての大衆心理の扇動よりも、自我が肥大した結果のナルシシズムの欲求の方が勝ってしまったようです。
信者の輪から引き出されて、世間の目にさらされてしまった扇動者は惨めな物です。
人間と言うのは、裸にされた時に本当の力が問われるのかもしれませんが、うっかりお調子に乗る程度の粗忽者な彼には、その肚の強さは無いようでした。
衒学的な宣伝を纏って自身を粉飾していた(手品師なのだから演出をしますよね)彼に、本当の学者たちからの知性や教養面でのメスが入り、実に無残に切り刻まれたように印象しています。
その中の一つに、私がニュース解説者、社会活動家として信頼しているある大学の先生からの指摘があったのですが、曰く「心理学という知性を正当に学んでいる人間なら、それを活用して社会に役立てるのが本来の在り方なのに、その逆をしている」と言う物がありました。
これ、大学の先生らしい実に学問主義的な見解であるように思いますが、実際には学問で人間の心根は変えられないような気がします。
手品芸人氏は「これから間違えたことについてよく学んで後に活かしたい」という声明を発表したそうなのですが、これに対しても「テストで間違えた問題に対して復習をするというような程度の物言いだ」ということをこの先生は指摘していて、彼が本質的に事態を理解していない、なぜ自分がこんなにも怒られているのかを理解していないのであろうことを言葉にしていました。
また別のある報道関係者は手品師氏のこの発言に対して「他人の人生はあなたの教材になるためにある訳ではない」との糾弾をしていました。
そのような、本質的な物を考える力の足りなさを問う声が耳に入りました。
教養は与えられても知性は与えられない。
知性は与えられても理性は別物です。
理性が得られても品性が伴うとは限らない。
手品師氏の場合は、教養=知識だけでその他の物が欠けていたのであろうと思われます。
そして、それこそが典型的な現代人、根無し草の大衆の姿なのではないでしょうか。
テストの問題に対してマークシートのナンバーで答えることは出来ても、本質的に問題で書かれていることの意味は分からない。
彼の友人でも会った百獣の王氏は、この芸人のことを擁護しながらも、やはり本質的なことが分かっていないということを語っていました。
曰く、自分が成功できたのは生まれつき恵まれた環境にあったという運に過ぎなくて、自分の実力だけで至ったわけではないと言うことが分かっていなかったのではないか、ということです。
運が良いと言うのは、インフラの整った国に生まれて、義務教育を受けられる政治体制下にあって、かつ親から一流私立大学に通えるように後押しをされて育ったということだそうです。
最後の一つに関して決定的に欠けていた百獣の王氏は、そのことが良く見えたのでしょう。
それでも彼は、前の二つの条件に関しては本当に幸運に感謝している。
だから自分が成功したのは運が良かったからだと感じていて、その成功から得た分を国やインフラの整備に回るように活動しています。
こういった、人としての物の見え方が手品師氏には決定的に欠けていたのでしょう。
そうするとそこには、取って付けた薄っぺらな知識と利己精神、そしてナルシシズムしか残らないのではないでしょうか。
百獣の王氏がかつて、スポーツ選手に関して言った言葉があります。
それは「どれだけすごい身体能力があって何億っていう年俸を稼いでいても、そこから自分の生き方を自分の産業にしないと結局大人の作った枠の中で遊ばせてもらっているだけだよ」という言葉です。
どれだけ偉大な選手でも、十五年、二十年の間、ただのスポーツ選手であったなら、引退した後に何も残らない。
自分の持っていた一番偉大な要素が失われて動けなくなった時に、後の人生に何も過去よりいいことがなくなるという考えが、彼の人生観には常にあります。
以前に、一流大学に入って一流企業で定年まで勤めた高齢者が、引退後に陰謀論に取りつかれがちな精神疾患的傾向があるということを書きました。
つまり、知識と肩書以外の物が何もないまま年を取ってしまうとそうなってしまうということですよね。
典型的な大衆の末路だと言っても良いのではないでしょうか。
これもまた、百獣の王氏の言うアスリートの末路の縮小版と言えましょう。
結局他人に与えてもらった型に喜んではまっていく生き方と言うのは、最後にはそうなるものなのではないでしょうか。
自分の生き方をきちんと認識出来ていないと、そのようになってしまうと言えるような気がします。
付け加えますと、件の手品師氏にはそこが見えていなかったように思います。
再三書いてきていますが、いまは世の中が巨大なパラダイム・シフトの中にあって苛烈なまでの軋轢を引き起こしながらニュー・ノーマル化をしています。
人を扇動して上澄みを跳ねるだけというのが人生の成功なのだ、という価値観であって手品師氏は、一言で言うなら古い時代の価値観に生きていたように思います。
戦後のドサクサを口先三寸でしのいでのし上がってきた成金的な、現代に適応する力に欠けた「成功者」であったように思われます。
そしてそのような「成功」は、すでに成功ではなくなります。
いつまでも村相撲での序列を人生の誉れにしている田舎から出てきた元青年団員のようなズレが生じています。
すでに物差しが変わりつつあることが理解できていない。
物差しと言う言い方が穏当すぎるとするなら、銀資本が金資本に変わっていることが理解できていないと言えばわかりやすいでしょうか。
その、物の見えていなさをもって、彼が実際のところは、ただのあぶく銭を掠め取った山師に過ぎなくて、本当の意味での「成功」とは程遠い人間であるように私には思えます。
旧来のマークシートをこなして人間関係をうまくやりおおせてさえいれば人生に成功できると思ってきたような元優等生君たちは、多くが同様の末路を迎えるのではないでしょうか。
旧時代の通貨が大暴落をしているなかでそれにしがみつくことは、飢えた狼に山で囲まれて「金ならやる」と言っているのに等しいように思われます。
百獣の王氏は、もし自分が成功したと感じたらそこから良い価値観の発信をして社会にフィードバックすることが大切だと言うことを語っていたことがありました。
これは、手品師の人のように、大人が作った価値観の中でもみ手をしながら「ヤンスヤンス」と落ち穂を拾って懐に入れていくような生き方とは真逆であると言っても良いでしょう。
価値観を発信して社会にフィードバックすると言う、変革する世の中への参画意識の有無は、今の時代にとってある意味、生存能力の一つであるとさえ言えるのではないかという気がします。