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現代の政治に観る神話 2・王達と神々

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 前回、共和党支持の黒人ユーチューバーの方が提示した「ジョージ・フロイドBLM政治利用説」について述べました。

 その配信者の理論では、フロイド氏の検死では体内から多量の禁止薬物が発見されて、死因はオーバードーズだと言うことが語られていました。

 もしそれが真実だとしたら、これは話が大きく変わってきます。

 そこで調べてみたのですが、なるほど、この配信者氏のプロパガンダ姿勢が良く見える結果になりました。

 この検死結果というのは、彼が死亡した時に最初に警察が発表した物であることが分かりました。

 遺族らから自分たちでの再検査の要請が出た時、警察からは彼等に血液、体液の返還は行われなかったのだと言います。

 その乾燥状態で検死を行ったところ、医師は明確に死因が窒息死だと言えるだけの損傷を発表しました。

 この、警察発表と民間検査における二度の検死の結果がある訳ですが、警察側はその正統性の表明を一切していないのだそうです。

 あくまで問題が起きる前の一時発表であって、うがった見方をするなら、後付けの可能性が考えられます。

 というか、これまでの警察のやってきたことを考えると、その可能性の方が高い。

 黒人種の犯罪者をリンチで殺害して「死因は心臓発作」とやってきたのがBLMの原因でしょう。

 同じことをまたやったから暴動に繋がったと考えるのは自然なことです。

 しかし、実際のところは公正に言うなら「現状不明」とすべきなのでしょう。

 バイデン政権はこの問題を調査中だそうですが、いまだ真実は発覚していません。

 とはいえ、裁判で実行犯であるとされた警察官には有罪判決が下ったので、調査の結果がそこに反映した物だと感がるのは間違ってはいないでしょう。

 もちろん、そこに政治的判断は大きな影響を施すというのは当然ですし、裁判結果と真実は無関係でもあるのですが。

 その上で、ジョージ・フロイド氏の死が政治利用されたという主張に関して私は全面的に同意をします。

 実際に、彼は麻薬と強盗で刑務所を出入りしていた常習的犯罪者だった過去があり、前科の内には妊婦さんを銃で脅し暴力を加えて病因送りにした強盗事件もあります。

 いわば、私個人の主観で言うなら、いつどこのタイミングで殺されてもおかしくなかった社会のクズでもありました。

 もしあの事件があのタイミングでない過去に起きていたら、あのような運動には繋がらなかったのではないでしょうか。

 あのタイミングで、ニュー・ノーマルに向かっている世界には新しい価値観のテリトリー分けが必要だったことは間違いありません。

 その中で、黒人種が環境を向上させるためには起爆剤が必要でした。

 その役割として、ジョージ・フロイド事件は活用されたのだと私は感じています。

 もちろん、あのような事件は常に起きているのだと言います。

 それは良くないことです。

 ですので、どこかのタイミングで次に起きた同様の事件を活用して再発防止にも役立てる必要があった。

 そこで支度をして待ち構えていた処で、あの事件が起きたのでしょう。

 一部の反BLM論者があれを政治利用だと非難するのはそういった理由があるのでしょうが、だとして政治利用で何が悪い、というのが私の回答です。

 法治国家において政治で世の中を変えようとするのは正しいことではないですか。

 その意味で、私は件のユーチューバー氏の「BLMは馬鹿げた甘えだ」という意見には反対です。

 しかし、ジョージ・フロイド氏を聖人のように祭り上げるのは間違いだ、という意見には賛成です。

 それに関しては、政治的利用の必要悪のような物でしょうか。

 まともに教育を受けていない人も多い大衆の扇動のためには、そう言った宣伝が必要だった。

 彼でなくても誰でも良かったのでしょうが、たまたま彼になりました。

 なった以上は、祭り上げないと座りどころが出来ません。

 彼の彫像を建立して通りに名前を付けることで、活動には多額の募金が集まったと言います。

 これは、完全に信仰の力ではないか……と私は思いました。

 知識を持たず、学問を理解しなくても、人は信仰を持って動くことは出来ます。

 そのような人々を動かすための手段として、このようなことは人類史において常に行われて来たことではないでしょうか。

 日本でも、寺社の修復費として献金を募るということは何度も行われています。

 以前書いた、アメリカン・ゴッズの記事における生贄の構図がそのままここには見られるように思います。

 ジョージ・フロイド氏は生贄となったことで神として祀られ、その祭祀としてあの暴動が起きました。

 これも以前書いたのですが、インドでは調和の神であるヴィシュヌの祭りとしてジャガンナータという山車の暴走が行われます。

 これは、進路にある物や人を轢き潰して生贄としながら走り続ける儀式だと見なされています。

 21世紀の政治的パラダイム・シフトの中には、このような人類の持つ根源的な習性とも言えるような儀式の構図を観ることができました。

 思えば、20世紀における満州事変の張作霖爆殺事件も同じ構図を観ることが出来ます。

 このように、人間の中には綿々と原初の習性のような物が受け継がれています。

 これはレヴィ=ストロース先生の仕事に置ける「構造」のような物だと言って良いのではないでしょうか。

 我々は自分たちの中にある、この無意識の構造に対して注意深くなった時に、少し賢くなり、一歩自由になれるように思います。

 誰かを悪者にする、誰かを祭り上げるというような構造は、それらを活用することに長けた権力者の得意とするところです。

 いま日本では、国会を開かず、人の話に一切まともに返答することの無い首相がやり玉に挙がっています。

 しかしあの人の役割はもしかして、この誰がやっても決してうまいこと行くことなど無いはずの自然災害の季節を繋ぐための首代、いわば生贄なのではないでしょうか。

 そうやって世の怒りや不満を一身に引き受けて消えたのち、次の時代のために用意されていた別の役割の人間に据え替えられるのでは?

 狡猾な政治の青写真がそこ見える様に感じるのは気のせいでしょうか。

 若手の議員を見ても、すでにして一切話が通じないと言うことで知られている人が党から有力視をされています。

 彼もまた、次に生贄になるための要員として養殖されているのでは?

 このような繰り返される構造を見立てるというところに、伝統思想の視点の役割を観るように思います。

 

追記

 この記事は2021年8月に執筆されました。


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