五祖拳の二つ目の母拳を打っていて、一つ気付きました。
これ、蔡李佛じゃないか?
少なくとも、私は同じ要領でやっています。
他の武術をやるときは混ざることの無いように気を付けてあえて似通うのを避けているのですが、老師から教わったことに従って戻してゆくと、そこに着地しました。
もちろん、明確な差異はあって、それは単重と双重ということなのですけれども、逆に蔡李佛も初期は双重でやって、高級段階に至った時に単重に換えるという段階で練功して行って良いのかもしれないと思いました。
次に蔡李佛を始める生徒さんが居たら、そちらのやり方で教伝をした方が分かりやすいかもしれない。
重心の遣いはともかくとして、別の大要領に関しては老師から決定的な指導を受けました。
それは、内臓の力を使う、ということです。
私はこれをずっと前からこちらでも発表していますし、それだけの講座も開きましたし、タイでもこれを表現した仏像を発見しまし、
五臓の調整の施術も大師の系列の表看板として備わっている物として学んでくることができました。
最近ブラジルの阿闍梨から教わった処によりますと、この五臓六腑の内功を仏教に取り込んだのは、天台宗が始まりだと言います。
天台宗は内功の要素が記録に残っており、施術などもあるのだと言います。
この内臓の功を武術に用いるのが我々仏教武術の要点だと思ってここまでやってきているのですが、老師が言われるには、実はこれは北派ではあまり無いのだとのことです。
その意味で、蔡李佛と五祖拳という両南派の共通点として、これが通じているのでしたら納得が行きます。
面白いのは、北派でも例外的に、八極拳にはこの内臓の力があるとのことでした。
また、岳家拳にもあると言います。
しかし、岳家拳は系統的に八卦掌や形意拳に併伝されるいわゆる内家拳グループに属する武術です。
ですので、もしかしたらこれが、北派で言う内外の区別の一つなのかもしれません。
老師が最もお得意とされる北派武術は、恐らく通臂拳です。
これはいわゆる外家拳の代表のような武術でしょう。
だとしたら、もっともメジャーな内家拳である太極拳はどうなのか、という疑問も湧かれるでしょう。
以前から書いているように、太極拳は独自発展した、現代武道的な意味で「強い」門派だと私は認識しています。
この現代武道だ、というのがミソで、各人でのやり方が個別発展していて、正解と言う物が明確化されなくなっているのではないか、というのがあります。
本来の伝統武術の考えであれば、当代の宗家が弱かろうが下手だろうがそれが基準となって正解はアップデートされてゆく物なのでしょうが、現代武道ならば個々人のやり方で効果が出ればそれが正解となるのでしょう。
以前、ある太極拳の先生とお会いした時に、私は謙虚に若手の師父として勉強させてもらうつもりで礼を持ってお話をしたのですが、相手が私のこの体格と少林拳の師父と言う素性にかかってしまったのか、オドオドして非常に挙動不審なことになってしまったことがありました。
また、その先生は中国武術全般に対してもよく分かっていないご様子にも見えました。
自分自身の外に正解がないと言うことはそういうことを起こしうるのではないかという気もします。
あるいは単に、自覚を生み出しえないということかもしれません。
自分を基準に強弱で物を見る習慣がついてしまうのは、心が囚われやすくなるように思います。
その上で、私の老師のレベルにお話を戻します。
老師は、太極拳もされます。
だとしたら、普通は表看板にそれを上げそうなものなのですが、老師は元々生徒募集をしたり告知を出したりをまるでされない方です。
長く老師についてられる生徒さんに伺ったところ、老師の太極拳は難しいので教えていない、とのことでした。
何度か偶然それを教えていただく好機に恵まれたことがありました。
これが難しいとかいうレベルの物ではない。
内臓の力というだけの次元の物でもありませんでした。
中国の考え方だと、内臓にはそれぞれの力を運ぶ経脈があります。
その脈を使います。
私が普段やっているような「あ、これは上に向かう力だから肝臓の勁を主体にしよう、身体の右側が特に強く働くな」とか「定力は腎臓の勁で繋ごう、水行は下に向かい陰の力だ」というようなレベルではありません。
それぞれ経脈を使うよう指導されました。
経脈は全身に広がっています。
肝臓を使うから右脇、腎臓だから後ろ腰から股間、というようなゾーニングではありません。
これはすごい。
肝経の〇〇というツボを××のツボに対応させて、というような物凄い繊細な動きを教えていただきました。
このレベルでやっているなら、太極拳はさすがに内家武術の代表格、と言った感じがします。
ただ、なんとなく外形だけなぞって他人と較べてそれを基準にしているのなら、現代武道になることでしょう。
つまり「人による」という一般論に落とし込まれる。
昔の武術雑誌に目を通していた処、編集後記の欄に「日本では八極拳と内家拳ばかりがもてはやされるけど、通臂拳や長拳と言った外家拳や、南派武術もバカ強いのに」ということが書いてありました。
強弱で論じている所はまぁ時代なのでしょうが、実際に中華各地を回って取材をしている人には、本物の手ごたえがちゃんと分かっていたということなのでしょう。
ブランド意識やごっこ遊び程度の「俗流」で触れているだけのマニアやオタクには決して分かりえない実態がそこにはあるのだと感じています。
いま、これら先人の仕事の流れをこうして研究していて、通底しているところが少しづつ見えてきているように思います。
この分野に切り込んでゆくのはすごく面白いことだと思うのですが、三十年かけてここに踏み込む人材は中々簡単には現れなくても仕方がありません。
その分を、我々が要点まではまとめて後の人の役に立つように備えておきたいところです。