昔、ずいぶん長いこと分からなかったことがあって。
それは、なぜバカは悪いことだとされるのか、ということでした。
私の仲の良い連中は見事にバカばっかりだった。
バカで強くて面白い連中で、一本気で男気があってみんな大好きだった。
バカはバカという一つのステータスであって、全然否定されることじゃないと思っていました。
しかし、やがてバカだとどういうことになるのかということが分かってきました。
若いうちはいいのですが、歳を経てくると社会とのマッチングの悪さから、卑屈になり、歪んできて得てして「悪」になってしまう。
まっすぐな気持ちの良いバカで居られることはまずありませんでした。
そうか、こういうことなのだな、と思いました。
非常に残念ですがそれが私の現実でした。
近年になって、衆愚制社会について途方に暮れるにつれ、あまりに多くの大衆が結局は私の友だったバカたちからまっすぐさを取った存在であるのだということが気づいてきました。
あぁ、それじゃやっぱダメだよな。
このバカ問題が片付いてから、もう一つの疑問が出てきました。
なぜ「小さい」は軽んじられるのか。
身体の大きさのことではなくて、人間の小ささのような物のことです。
一般に、私が観る多くの世間の人は小さい。
小さい人たちが小さいことに終始して人生を終わるというのが人の一生の定番ではないでしょうか。
小市民という言葉さえある。
小さな人生、小さな幸せ、決してバカにした物ではない気がします。
しかし一方で、世俗の卑しい出来事に接するたびに「小さい」と嫌悪を感じている自分も居ます。
これは一体いかなることか。
答えは老子の中にありました。
老子が生き方において善としている「タオ」に寄り添った生き方への説明の中で、「道に関しては本来は名前はない。だがあえて言うなら道、または大と言える」と書いてあります。
そういうことか。
小が何かは小を見ていても分かりませんでしたが、大の逆だとすればこれで理解が出来ます。
つまり、タオの則っていない生き方をして、大の反対、小と呼ぶのだと考えれば納得がいきます。
タオの思想とは陰陽関係にあると言ってもいい儒教の祖である孔子様も「小人養い難し」と言っています。
これらを総合するに、バカも最後まで大きなバカであるならきっと悪くはないのではないでしょうか。