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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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神話学における人としての段階

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 先に、キャンベル教授の神話学における、狩猟採集生活から農耕生活に社会がシフトしたことで起きた変化について書いたことがありました。

 そのような、主体の変化と思想の変化と言う物は、社会に対してのみ起きることではもちろんありません。

 個人の中でも同様のことが行われます。

 キャンベル教授の言葉を借りるなら、ほとんどの現代人はフロイトの精神分析の段階にあると言います。

 すなわち、行動原理の根幹が全て性欲であると言う段階。

 これは決して性欲そのものに直接的に操られているという意味ではありません。

 ただ、より自分を強化したい、より自分を美しい存在にしたい、より自分を目立たせたい、というような、生命としての繁殖本能に帰結する欲求で動いている、ということでしょう。

 本質的に利己的遺伝子に基づく物であり、全ての行動原理が結局のところは自分自身に帰結する段階だと言っても良いでしょう。

 キャンベル先生はこれを「自己防衛、自己主張、自己執着の段階」とも言っています。

 その次の段階に、アドラーの状態があると言います。

 これは利己的な意思をあらゆる行動の動機としているフロイトの段階を越えて、利他のために生きている段階です。

 他人や社会、世界のために自分の命、時間、労力を活用することを自分の生き方だとしている状態。

 私自身はこの段階にあろうとして生きてきました。

 社会や世界のために生きようと思い、そのためにより良い物になろうとしてきました。

 この段階には、一つある危険性があります。

 それは、伝統で言う偏差や、仏教でいう魔境の状態にはまってしまう可能性があるのです。

 つまり、間違った公共性、善性です。

 その状態を、キャンベル教授はカルトと呼んでいます。

 これは純粋に教養と知性の問題と言っても良いでしょう。つまりは、自分が「公共」だと思っている対象が極めて限られた狭い範囲の物になってしまっている状態です。

 どれだけ私心を捨てて公共の役に立とうとしていても、その対象が「自分の家族」や「自分の民族」「国家」である場合、それは単に大きなレイヤーでの利己性でしかありません。

 ポジション・トークの視点であり、集団的ナルシシズムでしかありません。

「自分の性」や「自分の会社」「自分の部活」「郷土」などの場合は、まったくもって純粋な利己的行為にしかなりえない。

 なぜならそれは、その対象の外にある他者との比較によって成り立つものだからです。

 つまり、その外部の人達を「公共」の範囲に含んでいない段階で、これは公共の善意としては間違っているのです。

 白人優位主義やナチスの善人というのがこの状態です。

 100パーセント善意であり、自分のことを考えずに行動しているのに、結局は拡大した先の私のためにしかなっていない。

 戦争や差別などが消えることがないのは彼らのタイプの「善良な人々」のためです。

 ナチスドイツのユダヤ人虐殺実行者であるアイヒマンの有名なセリフを覚えている方も多いことでしょう。

「私は国の命令に従っただけのただの役人だ」

 有能な役人として国に尽くすことが、ただの悪の権化として歴史に名を残すことに繋がる。

 アイヒマンにインタビューをしてこのセリフを聞き出したハンナ・アーレントは、その仕事を通して、歴史的な邪悪の正体を単に薄っぺらな中身の無さだと暴露したと評価されています。

 つまり、確かに無私ではあるかもしれないのですが、単に中身がないだけども言える。

 現在の陰謀論者の人達もこの範疇の人々が多いことでしょう。

 実は神話学的な経緯を経た英雄たちも、多くはこの段階にとどまっているとキャンベル教授は書いています。

 部族の英雄やシャーマンのような人達は、得てして上に書いたような小さな集団内での存在にとどまります。

 本当の英雄、すなわち元型的存在とは共同体の価値観を破壊してその先に広がっている物を見て、その価値観で行動をしなければならない。

 なので、自分の価値観の外に出る者、それをして狂ってしまったと狭い価値観の中では言われるような存在が、キャンベル先生の言う元型的英雄です。

 であるがために、それらの人々の獲得した能力を教授は「闇の力」と呼んでいるのでしょう。

 その社会の中で、一般的に日の目に当たっていない部分の価値観が持つ力です。

 それが神話の段階です。

 ですので、まさにこの神話の段階に至って闇の力を得た物は「人でなし」と呼ばれるにふさわしい存在となる次第です。

 中国で言うなら、カルトの段階は孔子思想で言う「小人」でしかない。

 自分の一族の栄達しか考えられていない状態ですね。

 神話の段階は老子にある「天地に仁無し 万物を持って芻狗となす」の状態だと言えましょう。

 仁とは人の心、あるいは人格のことです。

 わたくしを棄てて、世間並みの優しさや感情を無くしてしまった状態、それがタオで言う天人合一です。

 天に祈っても、生贄を捧げても、雨が降ったり噴火が収まったりはしません。それと同じように、ただ公正なシステムのような状態になっているのが天と一体化人間の在り方です。

 自分も含めたあらゆるものを飼い犬のように見なしてかえりみることがない。

 そのような、超然とした公との一体化、ある種の冷徹さとも言える状態があるがために、やはりこれは狂気や傲慢だと取られても仕方のないことでしょう。

 天然痘を撲滅させて我々を救ってくれたジェンナー博士の実験などは、まさしくそのような神話的英雄の行いだとしか言いようがない。人でなしの仕業です。

 キリスト教を土台とした西洋価値観は、これらの神話の価値観を禁じてきました。

 そのため、その下で育った我々は、人を食い殺すような神話の神々についてまったく理解が出来ないことが多い。

 なぜインド文化圏の人々がそのような物騒な神々を祀っているのかは分かりづらい。

 しかし、キリスト教的概念の外に出てみれば、それらの「自分のことは害する力」が別のところではより大きな恩恵を世界にもたらしているということが見えてきます。

 その段階に自分を持ってゆくのが行の道です。

 そして前述したように、その道を歩んで一定の場所に行ける人間は極めて少ない。

 ですのでキャンベル教授は、そういった行者としての他者貢献への道を、栄光の中には無い絶望の中で歩む道だと書いています。

 まさに世間的価値観の埒外にある物であると言えましょう。

 そして、私たちが求めているのはそのような道なのです。

 ですから、これは人を選ぶ物であり、誰にでも簡単に渡せるような物ではないのです。


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