様々な秘伝を最初から公開することに、ためらいはありました。
悪用されたらどうしようとか、世にあふれてる自己流先生に流出してねつ造の道具に活用されたら良くないのではないかとか。
しかし、最終的には、そういう人たちの多くはたいてい真面目に練習をしないから理解が出来ないだろうから大丈夫だろう、という立ち位置に至りました。
悟性が無い。と言うことです。
どうも我々の武術は現代日本社会の考え方とかけ離れているらしく、根本的なところから考え方を変える姿勢が無いと理解できないようなのです。
これは、老荘思想が根本にあるということであり、本来私たちはそのような思想とそれに伴ったライフスタイルを身に着けるために稽古をしているので、ある意味では当たり前でもあるのですが。
老荘とは何かというと、いわゆるタオイズムです。
ではタオイズムの基本は何かというと、陰陽思想です。
色々な物の先生がやたらに陰陽と言いますが、そのような二次的に派生した表現としての陰陽ではなく、一時的に本当の意味での陰陽です。
軽いと重い、実と虚、有と無などの区別を自覚的に、日常的に行ってゆきます。
そしてここからが大事なのですが、それをそのままにしておきます。
この部分が多くの人には難しいようです。
凝り固まった価値観でエゴのままに判別した物を操作しようとしてしまう。
それは違う。
エゴ(自我)とエゴでは無い物(本能)も分別する。
そしてそのままに用いる。
例えばの話、悪と善に物を分けたとして、悪を即改善せねばと考えない。
悪は悪であるものだと思う。それがタオです。
私の友人で、セックスは悪だとなぜか知らないが決めつけている人間がいましたが、それこそがタオに最も反する姿勢です。
何かを良くないと決めつけてそれをどうにかしようとすることは、タオの考え方ではありません。
それこそが現代的な固定観念と、ファシズム的政治意識でしょう。資本主義は民主主義的な考え方、言い換えれば消費社会の象徴です。
そこではない。
何も使われていないスペースがあったら、そこにすぐ物を詰め込もうとか何かを建てようとか、換金手段としての有効活用とやらをしようと反射的にしようとしない。
タオとはそういう物です。
この、現代社会とのギャップがあるために多くの人はせっかく練習で極意を伝承してもその場で自分のエゴで台無しにしてしまいます。
せっかく身体の中に、使ってない虚を作りだしても、次の瞬間に思い切りそこに力や体重をぶっこんでしまう。
そうではない。
虚と実を分けたら、そのままにしておく。
自転車のように、それを入れ替えるときの変化を運動エネルギーにしたりはしない。
あるがままに用いる。
老荘では、無の音を聞くと言うことを言います。
無に音があるのか。それは謎ですが、とまれ、目の前の景色のうちに、ある物ではなく無いということを知覚するということでしょう。
江戸時代の剣士が、一尺の幅の道を歩くことは誰にでも出来るが、それが城の天守閣から富士山に渡されていたなら歩くのは難しい。剣術を得とくするとはそういうことだ、と言ったそうです。
この時の、同じ幅の道の左右に広がっている物が「無」でしょう。
そこに「無い」ということが大事なのです。
人間は、無い物を無いままにしておくことが苦手です。
すぐにそこに自分を投影してしまう。
そうして映し出された物を妄想と言います。もうぞうと読みます。現代的なもーそーとは別のニュアンスです。
禅や気功をしていると、まずはこの妄想が現れます。これを魔境と言います。
魔境とは悟りの過程に通る間違った悟りのことで、自分の内面を吐き出す段階です。
そこを自分の内面が外の世界に映った物に過ぎないと思わず、自分が正しいことを理解したのだと思ってしまうと、自分の内側にはまりこんでしまって出てこれなくなってしまいます。
ひどいと禅病と言い、ノイローゼの一種になります。
昔の弟子で、数年会わなかったら一人でぶつぶつしゃべったり、突然中空に怒鳴りだしたりするようになった者がいました。
話を聞くと、お化けが見えるのだと言います。
お化けが見えるとなぜ一人でしゃべるのだと訊くと、お化けが話しかけてくるから答えているのだと言います。
なぜそんなものに受け答えをしてやるのだと言いました。
私などは、相手が生身の人間であろうが話す価値の無いことを言っていればスルーすることなどしょっちゅうです。時間と労力の無駄です。
そのようなことを、老荘思想で白眼視と言います。
古代の賢者が、興味の無い者が話しかけても黒目を向けることなく、まったく居ないかのようにふるまっていたことに由来する故事です。
感じのいい態度ではないですが、それが賢人の態度だと語り継がれています。
相手をしなくなった結果、お化けは出なくなったようです。
お分かりでしょうか。彼のお化けもまた、魔境です。彼の内面が幻の姿を取って感情を掻き立てようとしていたのです。
人間は感情に刺激を与えたいという習性があるようで、起きていないことに対しても勝手に想像して腹を立てたりしてある種の快を得たりしようとするようです。
うつ病などはその類だと思われます。
今日、精神の病は脳という臓器の病だと言われているようですが、この脳にはビリーフという癖があるそうです。
ある種の人が、刺激に対して胃酸が出やすいとか発汗が起きやすいとかおなかが下りやすいと言った反応の癖があるように、脳もまた刺激に対して分泌物の発散の癖があるのです。
その分泌物によって人間の感情は方向づけされますので、悲しくなる物質が出る癖のある人は悲しむべきことなどないのに脳に悲しまされてしまうのです。
そのための理由は後付けの物であるどころか、無意識に理由となることを見つけようとしたりしてしまいます。
この現象、無に自我を投影していることそのものですね。
無であることを、無のままにしておくことが我々の学ぶべきことです。
それが出来ない人は、自我に執着しすぎている。
私が常に否定している、オカルトやスピリチュアルが魔境だと言うのはこのようなことです。
そこに天然には存在していないことを、エゴでねつ造してしまい、勝手な陰謀論や希望的観測やら神の意思やらをでっちあげてしまう。
すべて自我の投影に過ぎません。
もちろんそれらには、古代の対症療法としては、脳の思考癖を方向づけして習慣としてゆこうという高度な心理療法的な意図があるのですが、勝手な自己流でオカルトやスピリチュアルが独り歩きしてしまっている現在、ただの思考停止のおまじないになっているだけのように思います。
そして、それらは自己の内側に閉じこもってしまう一本道であるため、大変に危険な物と言わざるを得ません。
何もないところに、お化けや天使を見るのは精神の病です。
無を無のままにしておけるところに、英知と己の心の確かさがあります。
そのように心の独立ができてこそ、人は自由になれるのです。
脳からの分泌物や妄想に拘束されるのではなく、あるがままに自立した精神を持つことになります。
これが無為自然です。
無為。意味のない無を認めることからあるがままははじまるのです。
もちろん、どのような人生を送るかはそれぞれの自由です。
美しい素肌で生きるのか、べたべたとしたセンスの無い厚化粧の心で人前をさまようのか。人は好きに生きる権利がある。
ただ、後者の人は悟性が無い。
永久に真実にたどり着くことはない。
本当に生きることは出来ないのだと思います。
非常に惜しみますが、自由自立は大変に勇気の要ることです。誰にでも強いることは出来ません。
虚を認め、その無に不安を覚えて埋めることなく、何も手を加えずただ向き合える時、明確な自分の立ち姿を見つけることができます。
悪用されたらどうしようとか、世にあふれてる自己流先生に流出してねつ造の道具に活用されたら良くないのではないかとか。
しかし、最終的には、そういう人たちの多くはたいてい真面目に練習をしないから理解が出来ないだろうから大丈夫だろう、という立ち位置に至りました。
悟性が無い。と言うことです。
どうも我々の武術は現代日本社会の考え方とかけ離れているらしく、根本的なところから考え方を変える姿勢が無いと理解できないようなのです。
これは、老荘思想が根本にあるということであり、本来私たちはそのような思想とそれに伴ったライフスタイルを身に着けるために稽古をしているので、ある意味では当たり前でもあるのですが。
老荘とは何かというと、いわゆるタオイズムです。
ではタオイズムの基本は何かというと、陰陽思想です。
色々な物の先生がやたらに陰陽と言いますが、そのような二次的に派生した表現としての陰陽ではなく、一時的に本当の意味での陰陽です。
軽いと重い、実と虚、有と無などの区別を自覚的に、日常的に行ってゆきます。
そしてここからが大事なのですが、それをそのままにしておきます。
この部分が多くの人には難しいようです。
凝り固まった価値観でエゴのままに判別した物を操作しようとしてしまう。
それは違う。
エゴ(自我)とエゴでは無い物(本能)も分別する。
そしてそのままに用いる。
例えばの話、悪と善に物を分けたとして、悪を即改善せねばと考えない。
悪は悪であるものだと思う。それがタオです。
私の友人で、セックスは悪だとなぜか知らないが決めつけている人間がいましたが、それこそがタオに最も反する姿勢です。
何かを良くないと決めつけてそれをどうにかしようとすることは、タオの考え方ではありません。
それこそが現代的な固定観念と、ファシズム的政治意識でしょう。資本主義は民主主義的な考え方、言い換えれば消費社会の象徴です。
そこではない。
何も使われていないスペースがあったら、そこにすぐ物を詰め込もうとか何かを建てようとか、換金手段としての有効活用とやらをしようと反射的にしようとしない。
タオとはそういう物です。
この、現代社会とのギャップがあるために多くの人はせっかく練習で極意を伝承してもその場で自分のエゴで台無しにしてしまいます。
せっかく身体の中に、使ってない虚を作りだしても、次の瞬間に思い切りそこに力や体重をぶっこんでしまう。
そうではない。
虚と実を分けたら、そのままにしておく。
自転車のように、それを入れ替えるときの変化を運動エネルギーにしたりはしない。
あるがままに用いる。
老荘では、無の音を聞くと言うことを言います。
無に音があるのか。それは謎ですが、とまれ、目の前の景色のうちに、ある物ではなく無いということを知覚するということでしょう。
江戸時代の剣士が、一尺の幅の道を歩くことは誰にでも出来るが、それが城の天守閣から富士山に渡されていたなら歩くのは難しい。剣術を得とくするとはそういうことだ、と言ったそうです。
この時の、同じ幅の道の左右に広がっている物が「無」でしょう。
そこに「無い」ということが大事なのです。
人間は、無い物を無いままにしておくことが苦手です。
すぐにそこに自分を投影してしまう。
そうして映し出された物を妄想と言います。もうぞうと読みます。現代的なもーそーとは別のニュアンスです。
禅や気功をしていると、まずはこの妄想が現れます。これを魔境と言います。
魔境とは悟りの過程に通る間違った悟りのことで、自分の内面を吐き出す段階です。
そこを自分の内面が外の世界に映った物に過ぎないと思わず、自分が正しいことを理解したのだと思ってしまうと、自分の内側にはまりこんでしまって出てこれなくなってしまいます。
ひどいと禅病と言い、ノイローゼの一種になります。
昔の弟子で、数年会わなかったら一人でぶつぶつしゃべったり、突然中空に怒鳴りだしたりするようになった者がいました。
話を聞くと、お化けが見えるのだと言います。
お化けが見えるとなぜ一人でしゃべるのだと訊くと、お化けが話しかけてくるから答えているのだと言います。
なぜそんなものに受け答えをしてやるのだと言いました。
私などは、相手が生身の人間であろうが話す価値の無いことを言っていればスルーすることなどしょっちゅうです。時間と労力の無駄です。
そのようなことを、老荘思想で白眼視と言います。
古代の賢者が、興味の無い者が話しかけても黒目を向けることなく、まったく居ないかのようにふるまっていたことに由来する故事です。
感じのいい態度ではないですが、それが賢人の態度だと語り継がれています。
相手をしなくなった結果、お化けは出なくなったようです。
お分かりでしょうか。彼のお化けもまた、魔境です。彼の内面が幻の姿を取って感情を掻き立てようとしていたのです。
人間は感情に刺激を与えたいという習性があるようで、起きていないことに対しても勝手に想像して腹を立てたりしてある種の快を得たりしようとするようです。
うつ病などはその類だと思われます。
今日、精神の病は脳という臓器の病だと言われているようですが、この脳にはビリーフという癖があるそうです。
ある種の人が、刺激に対して胃酸が出やすいとか発汗が起きやすいとかおなかが下りやすいと言った反応の癖があるように、脳もまた刺激に対して分泌物の発散の癖があるのです。
その分泌物によって人間の感情は方向づけされますので、悲しくなる物質が出る癖のある人は悲しむべきことなどないのに脳に悲しまされてしまうのです。
そのための理由は後付けの物であるどころか、無意識に理由となることを見つけようとしたりしてしまいます。
この現象、無に自我を投影していることそのものですね。
無であることを、無のままにしておくことが我々の学ぶべきことです。
それが出来ない人は、自我に執着しすぎている。
私が常に否定している、オカルトやスピリチュアルが魔境だと言うのはこのようなことです。
そこに天然には存在していないことを、エゴでねつ造してしまい、勝手な陰謀論や希望的観測やら神の意思やらをでっちあげてしまう。
すべて自我の投影に過ぎません。
もちろんそれらには、古代の対症療法としては、脳の思考癖を方向づけして習慣としてゆこうという高度な心理療法的な意図があるのですが、勝手な自己流でオカルトやスピリチュアルが独り歩きしてしまっている現在、ただの思考停止のおまじないになっているだけのように思います。
そして、それらは自己の内側に閉じこもってしまう一本道であるため、大変に危険な物と言わざるを得ません。
何もないところに、お化けや天使を見るのは精神の病です。
無を無のままにしておけるところに、英知と己の心の確かさがあります。
そのように心の独立ができてこそ、人は自由になれるのです。
脳からの分泌物や妄想に拘束されるのではなく、あるがままに自立した精神を持つことになります。
これが無為自然です。
無為。意味のない無を認めることからあるがままははじまるのです。
もちろん、どのような人生を送るかはそれぞれの自由です。
美しい素肌で生きるのか、べたべたとしたセンスの無い厚化粧の心で人前をさまようのか。人は好きに生きる権利がある。
ただ、後者の人は悟性が無い。
永久に真実にたどり着くことはない。
本当に生きることは出来ないのだと思います。
非常に惜しみますが、自由自立は大変に勇気の要ることです。誰にでも強いることは出来ません。
虚を認め、その無に不安を覚えて埋めることなく、何も手を加えずただ向き合える時、明確な自分の立ち姿を見つけることができます。