ここのところ、伝統的な師父について端々で書いてきた部分がありますが、私もやはり影響を受けてきた先生方の姿をなぞることになりそうです。
出来る先生方は、まぁみなさんお口が厳しい。他門を差して「下らねえ拳法だ」くらいのことはたやすく言います。
「あんなもん習ったその日にできる」「ラジオ体操みたいなもんだ」「ケツが飛び出してる」
言い方はともかく、想いが分かるような気がしてきました。
このままでは、いずれヨーダのような狷介さに至ることでしょう。
実際、色々なよその先生方を観ても「立ててない」「歩けてない」「息をすることからやり直さないとダメだ」などと首を振ってしまうことがあります。
また、良いなと思うときも「今出来にしては頑張ってる」「自己流だけど真面目になってるね」「惜しい。よくここまで来たけど備わってない」などと思ってしまいます。
これはダンスの先生たちもそうなようです。
「あーちゃっちゃっちゃ」「音が速い! ずれてる!」など、他の人を見ると我が身のことのように痛みが感じられるようです。
おそらく、様々な芸術の先生方がそうなのではないでしょうか。
決して、我が一番というようなエゴイスティックな視点からの感想ではないのです。
真実を追求している身にある者として、外界と人間の調和の中に見えてくる物があるのです。
そこが整っていないと息苦しい。
逆に、私たちは良くできた物が大好きです。
いい物を目の当たりにすることが出来れば美味しい物を口にしたような快を感じます。
すごいことが出来る人の話を耳にすれば、素晴らしいねえ、と思ってうっとりとし、さぞや誠実に取り組んでられる方なんだろうねえ、と人柄をしのびます。
別に自分が相手の物を欲しいとかは思いません。
二つのところに、同時に身を置くことは出来ない。
自分が良いところに在れるなら、他の良いものを寿ぐことができます。
素晴らしい物をこの世に形作ってくれてありがとう、という気持ちになります。
いまの世の中、本当にそこまでの、人類が歴史を掛けて洗練してきた文化や伝統の最先端を体現する方は決して多くは無い。
稽古をしている人のほとんどはまだ自己を離れることが出来ないどころか、ただままごとの稽古ごっこをしたいだけでしょう。
だから伝統的な師父のほとんどはそのようなごっこ遊びの人には「はおはお」と受け流してゆくのでしょうし、世の中には自己に囚われたまま溺れてゆく自己流先生が溢れるのでしょう。もちろんそれはそれで一つの実存です。
たださっきも書いたように、同時に二つ処に身を置くことは出来ない。
そして居場所を選び、築いてゆくのは自分自身です。
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師父の典型
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