前回、いまは大変だからと思考を放棄する時間をなぜか設定している人たちが、有事に他人を虐殺してきた人間だということを書きました。
しかし、実際にはどんな人間でも虐殺はするのであろうと私は思っています。
おそらくは、百年前と同じ状況に合ったら、かなりの確率で私もそうしたのではないでしょうか。
そして残りの人生を暗黒に塗られた台無しの物として生きたことでしょう。
ですが、YESとNOの二択だけではなく、閾値という物が存在します。
状況の圧に対して、思考が抑制へと働かせることは間違いありません。
平素から容易く感情的になって正気を失う人間と、理性をよしとして衝動を疑い、抑制的になる人間では、結果は同じでもそこに至るまでの閾値に大きな違いが出るはずです。
ですが、それでも普通の人間は、恐らく圧が高まって限界状態になれば必ず虐殺の方に過ちを犯してしまうのではないでしょうか。
しないのは恐らく、よほどの精神を持った人間と、単なる卑怯者だけです。
卑怯者は平素から、都合が悪い時にはうつむいて黙り込み、何にも反応をしないことでやりすごくことが習い性になっている。
なのでもしかしたら限界まで状況の圧が高まっても、虐殺には及ばないかもしれません。
いつものようにただうつむいて何にも反応しないでやりすごそうとするだけかもしれないし、ヒステリックな対応で大騒ぎしてごまかしきろうとするかもしれません。
こういう人たちが、周りの人間の虐殺を止めようとせず、見て見ぬふりをして事後も口を拭って何もなかった振りで生きてきた人たちなのでしょう。
苛烈な話だとは思いますが、民主主義国の市民としてこれは認められた態度ではありません。
ユダヤ人虐殺場があった場所を取材したところ、現地の老人たちはみんな「誰も何も知らなかった」「ユダヤ人が収容されているとは聴いていたがまさかそんなことが起きているとは思ってもみなかった」と言っていたそうです。
しかし、取材の最中に一人の老婆がやってきて「嘘つき! 当時からみんな知ってたじゃないか! 髪の毛が焦げる臭いも肉が焼かれる臭いも毎日嗅いでた! みんな知ってて知らないふりをしてきたじゃないか!」と叫んだそうです。
人間には、確実にそういう面があるのだということに向き合い、自分にもそのような部分があることを自覚することでしか、外圧に対する閾値を上げることは出来ないのではないでしょうか。
そうやって一人一人が自己を確立することで、国の自浄作用として働くしかないのではあるまいか。
どうかこの、世界的にも稀有な転落を観察されている国において、一人でも多くの人が目を覚まして生きて行ってほしい。
いつでも人は考えるんだ。
スピリチュアルやポピュリズムの甘言に騙されてはいけない。
それをおろそかにして良い時なんて言う物は、私たちの人生には存在しないんだ。
過ちや罪を犯して自分の人生を損なわないようにするためには、それだけ可能なことではないでしょうか。