芥川龍之介の「杜子春」の元ネタになっているのだろうなあという話を、中国の古典などを呼んでいるとまま目にします。
おおよその話はというと、青年が夕方に都のはずれで途方に暮れていると、仙人が現れて宝をくれるが、その財は一年で使い果たされて手元には何も残らず、青年はまた途方に暮れる。
そこで次に仙人にあったときに自分も解脱して仙人になりたいと言うと、仙人は「これから何があっても一言も口をきかなければ仙人になれる」と告げて彼を幻の人生に送り込みます。
そこでいろいろあるのですが、最終的に青年は声を出してしまい、所詮解脱は出来なかったか、という内容です。
このお話、芥川の方では最後に地獄に行って鬼卒より攻められるのですがそれでも声を出さず、しかし両親が責められているのを見て声を出してしまう、ということになっています。
そのとたん地獄の景色は消え去り、脇には刀を構えた仙人が居て「もしあれでも声を出さなければお前の首を切り落としていた。これからは両親に孝行なさい」と儒教めいたことを言って去ってゆく、という下げになっています。
そのために、一般には解脱なんかを求めるよりも地道に生きろと言うようなメッセージのように解釈されがちですが、中国のほうでは少し内容が変わります。
中国の「杜子春伝」によると、青年に声を上げさせるのは親ではなくて子になっています。
それも、仙人の術の中で生まれた実在はしない子供です。
その子供への慈愛で叫びをあげてしまった青年に、仙人は「バカめ、あそこで声を上げなければ解脱が叶ったというのに。せっかくお前は喜怒哀懼悪欲を克服していたのに、愛の執着を捨てることが出来なかった。しょせんはお前には仙骨がなかった」と具体的なことを言って去ってしまいます。
これらの話は、荘子にある胡蝶の夢の、夢の中の人生というモチーフが土台にあると推測されます。
そしてタオイズムの観点からすると、芥川の杜子春のラストシーンの意味はまったく変わります。
タオにおいては、死ぬことによって肉体という束縛から解放されて仙になれるという考え方があります。
スター・ウォーズでオビワン・ケノービが死んだシーンのモデルになった屍解という現象です。
つまり、杜子春青年は本当に仙人になれる直前までいっていたのではないでしょうか。
ただ、なりそこなってしまったので未練を残してもしようがないので、思いやりとしての世間知から仙人は、親孝行せいなどという方便を残したのだと考えられます。
この、苛烈にして極めて細い隙間をくぐるようなことが出来なければ、仙になるというようなことはできない。
そして仙にならないまでも、タオイズムの求める自由というのは、社会通念的な物からの解脱であるということが読み取れます。
もちろん、ねじれてしまったコンプレックスから好き勝手するのとは違います。それは逆の意味で社会通念に自縄自縛していることに他なりません。
キリスト教圏における悪魔主義やパンクスのような物には、そのような非常に情けない自由への誤解が見て取れます。
そうではなく、人間の作り物を離れて自然の流れにのっとろうというのがタオの中核です。
決して無道ではいけません。
きちんと道の上に足を着けて歩くことがタオの言う解脱であり、自由です。