先日も名古屋の学生さんと話し合いをしたと書きましたが、その続きを少し。
彼は整体の名人としていろいろなお客さんを見ているのですが、外側の筋肉だけではなくて、内臓からのアプローチもしているというのは前回もお話した通りです。
私が知りえない人体のいろいろな話も聞かせてくれるのでよく見識のために相談に乗ってもらうのですが、今出来の新作ボディワークの類に懐疑的な私、思い切って実際のところはどう見えるのかと聞いてみました。
すると、それまでに直接体を触れた中にいた、そのような物の実践者のお話をしてくれました。
聞けば、やはり効果はあるようで、確かに身体が緩んでいたりするのが確かにあるようです。
しかし、バランスが悪くて緩んでいるのが断片的であったりすることがあるそうです。
これこそが私たち伝統の中国武術が偏差としてよくよく注意する偏りです。
あるところだけを、発見した技術で柔らかくしたりし続けると、それと対応した逆側にすべての負担が行きます。
その結果、体調は別の角度から崩れることがありえます。
例を出してみましょう。
あるところに、腹筋がこわばっていて体が前側に曲がりづらい人が居るとします。
伝統中国医療で言うところの陰の経絡が走っている、体の陰側です。
柔らかい体を目指して、前屈でペタッと体が下につくようにしたいと努力を始めます。
体を柔らかくするといういまどきのボディワークを実践し、効果が出たとします。
さて、この人が、もともと垂直に立っていた時、上から地面に向かう自重を支えていたのが、そのおなかの固さだった場合があります。
なぜ固いのかというと、それが建物でいう鉄骨の役割を果たしていたからです。
すると、それを緩めて脱力させることができた結果、支えていた重さを別の処で支えなければなりません。
陰陽のバランスでいうなら、体の陰側が弱れば陽側の強度が増すことが考えられます。
それまで7:3で支えていた物の、7が3に弱ってしまえば、逆側が7になります。
つまり、陽側、背中側が重荷を受け渡されたことになります。
すると、それまで3を支える仕事力しかなかった背中が急に7の重さを支えなければならなくなるわけです。
これがどれだけ無理なことかはお判りですね。腰痛の元です。
あるいは、その負担を逃がすために今度は膝に負担を分配するかもしれません。
こうした物理的なことだけではありません。
もし、固いのが腹筋によるものではなく、内臓の膜の固さによるものだとしたらどうでしょう。
内臓を柔らかくすることなく、それを包む部分だけ柔らかくしたら?
内臓が固い人は、上に内臓を引き上げる力に対する抵抗が強く、内臓下垂が起きやすいそうです。
となると、それを下で包んで支えている腹膜なども一定の強さが必要になるので固く強化されます。
しかし、その土台を緩めてしまったら?
イメージしてください。
ボーリングの球を、丈夫な麻の布で包んで吊るしているとします。
その麻を、強度の弱いビニールにしたらどうなるでしょう?
たちまちビニールは破けて球は下に転がり落ちます。
つまり、内臓下垂が悪化して最悪、下からはみ出ます。
いわゆる脱腸です。
バランスを検討しないで、断片的に身体をいじくりまわすというのは、このように危険なものだと我々は考えています。
中国の伝統思想では、体質を検討し、問題の根幹に触れて、その部分から時間をかけて換えてゆこうと考えます。
いま起きている表層はバランスの結果として見えていることなので、そのバランスを少しづつスライドさせてゆくというやり方です。
今どきのボディワークの多くは、東洋性をアピールする物が多いですが、うわべを見て取って付けた手法で断片的にパッチワークしてゆくというのは、典型的な近代西洋の手法です。
その手の人たちが大好きな「西洋体育はダメだ」という奴の「西洋体育」そのものです。
そもそもその「西洋体育」というのは一体なんなのでしょうか。
古代ギリシャのオリンピックなどではないでしょう。それらの中には伝統気功的な側面もあります。
フランスにはバレエがあります。これは西洋体育の素晴らしい昇華です。
ロシアに至っては様々な角度からも言うことがない。
彼らが言うのは、おそらくドイツ式の軍隊運動のことなのでしょう。
まさに近代産業化の申し子です。
そして、断片的な技術を組み合わせて表層的な結果を求めるという思想なき彼らの効率主義こそ、まさにド近代ドイツ風産業化軍隊体育の申し子そのものです。
さらに言うなら、現代武道の名人たちというのはまさにその、明治、大正の近代社会の中で活躍した人たちです。
このような親和性によって、多くの武道ファンが現代武道の達人の逸話を伝統的な物だと誤解してしまっています。
そのためにそこへの憧憬が程よく近代思想によってデザインされたボディワークへの引力として働いているのでしょう。
いま流行りのNYヨガより前のヨガにしても、実際は英国領時代にイギリス人によって編集された近代産のものだという話を聞いたことがあります。
この、近代という時代の壁を越えてさかのぼるのは本当は非常に難しい物なのです。
その意味で、日本人の土台として明治からの近代体育教育と現代武道があるのが我々には非常に厄介です。
誤解されて批判されてきた「西洋体育」の世界では、すでに近代によって実存主義が浸透しているため、この部分はすでに思想的に乗り越えられているとみなすことも出来ます。
選択に対する対価をシビアに検討して選択することが常識となっています。
ダンサーとして生きることを選ぶのなら、体への負担を多角的に調整して、その中でのバランスをしっかりとります。
なんの対策もなく他人のやってることを批判しながらボンヤリとどんどんバランスを崩していってるのは、日本の体育界の体質なのだと思います。
上辺で物を見て、断片的な物に飛びつくというのは終わらない日常に沈みながら新しい物を好む日本社会の特徴ではあるのでしょうが。
むしろ、日常は終わらないということを自分に言い聞かせるために、そのようなことをする部分もあるのかもしれません。
「昨日今日作られた伝統武術」をするということは、思考を停止させて何も求めなくていい空間に自分を置くということが目的にあるのかもしれません。
そのようなことも人間には必要です。
ただ、その自己の安息のために、間違った情報をもって他者を批判するというのはいかがなものでしょう。
他人に言いがかりをして生贄とすることで安息を得る。
本質的には差別主義とそう変わらない物のようにも感じます。
どうでしょう?
何も考えなくていい日常の保持に必死になるのではなく、本質と深淵に触れることを恐れないことが、本当の伝統を学ぶということになるのではないかと思います。
何をもってどのように調和を得た結果がいまの自分なのか。
そのことに向かい合い続けてゆくことになります。
自分自身から目をそらすために行うのとは、ま反対です。