今月の湘南クラスのレッスンも無事終わりました。
お借りしているスタジオのオーナーさんが非常に身体感覚の鋭い専門家なので、毎回いろいろな話が聞けるのが楽しみです。
今回聞いたのは、某有名野球選手がメジャー・リーグに行った時のお話でした。
向こうに行ってピッチャー同士でアップのキャッチボールをしようとしたところ、その人ははじめ、まったくできなかったのだというのです。
メジャーに行くほどの選手がまさか、という感じですが、向こうの選手と言うのは脱力したまま起こりがなく投げてくるので、動いたと思ったときには気が付いたらメジャー級の球が飛んできているので間に合わないのだと言うお話でした。
同じくメジャー経験のある日本の選手は、帰ってきてから少年野球選手の育成に力を入れているのですが、最初は子供たちにしっかり構えろなどと言う指導をするのが嫌だったそうです。
自分がそんなことをしておらず、見てから反応をしているのだし、わざわざいつくようなことを子供たちに言いつけるのは、単に大人たちにとって都合のいい児童教育のための方針にすぎません。
これは、私が再三否定している近代日本の富国強兵政策のための教育の象徴的なお話だと思います。
少年野球と言うのはスポーツであるよりもいかにも体育会系的、すなわち軍隊式教育の温床となっていると常々感じていました。
思考を放棄して命令のままに、走れと言われれば気絶するまで走り続ける人間を作り出すための教育、もっというなら「フルメタル・ジャケット」のような洗脳を行う場所のように思えます。
そのようにして作られた男児たちは、高度成長期に迷うことなく他人を蹴落として上からの選別に対して要求をこなしていく人材として、さぞ優秀なビジネスマンになって行ったことでしょう。
そのために、まず徹底的にしごいて個を奪い去り、賞罰を最優先する習性を刷り込んでいった結果が、世界中で最も幸福度が低く自殺率もトップのこの国のいまなのでしょう。
近代日本の富国強兵教育が始まったころは、どれだけ貧しい家の子でも学習と訓練を受ける機会が与えられたので、それまでの封建社会と比べれば格段に進歩があったのは間違いありません。
しかし、それが20世紀の現代にもそのままアップデートされずにいればいいのかと言うとそうではありません。
近代以降の物を、伝統と呼ぶことは私には疑問があります。
野球に持ち込まれた現代武道の精神を、伝統だからと言うのはいまひとつ必然性に肯定が出来ない。
そう、私はいま、少年野球という物を通して現代武道という物の話をしているのです。
冒頭にお話ししたメジャーの選手のように、野球と言うのは剣道のようにまず礼をしていくぞという息を合わせて始めるものだというのは、日本独自のローカル・ルールなのだと思います。
ここからわかることは、よくそのような日本の現代体育のことを「西洋的体育」という言い方をして外国の物だと誤解していまっていることが多々あるのではないかという疑問です。
流行りの今できの新武術や新古武術でいう「西洋体育の身体の使い方」は、実は抑圧的な近代日本社会が生み出した本邦オリジナルの身動きのしかたなのではないでしょうか。
現在、「古武術」とされている物も、多くは明治期の改変の上に成り立っているものであったり、大戦中に日本中の文書が焼けてしまったところに付け込んだ創作流派であることは少なくないのだそうです。
名のある名門でも、その中身は後世に作って足したものであるということも珍しくないとも聞きます。
ここでテーマにしているのは正統性ではありません。
だとしたら、そこで使われている体の遣い方は、近代日本人の「西洋体育」の物ではないか、ということです。
「古流は体の遣い方が違う」などと言うのはここ二十年ばかりで新古武術から発信された概念です。決して見直すところない決定的なテーゼなどではない。
それはつまり、本当の西洋的な体の遣い方というものが、実は全然なめたような遺伝子の優位さからくるものとは言い切れないのではあるまいか、ということでもあります。
こうなってくると、では古武術を学んだりする意味とは何だろうか、ということになります。
実は古武術だと思っているのは時に最先端の研究の成果の身体の使い方なのではないでしょうか。
少なくとも、野球世界における上にあげた二人の元選手たちにとっては、西洋体育の身体の使い方は自然で柔らかく、かつ効率的な、それまでの日本における現代武道的体育よりもずっと有用性が高いものであった可能性が垣間見えます。
私にとっては、自分が学んでいる体の遣い方は、伝統的な物であると同時に、人間を自由にするということを目的とした物です。
これは、凝り固まった形式主義や洗脳とはまったく趣をたがえるものです。
それは、自由に身体を動かすというメソッドではないのではないかと思う処があります。
自由で身体を動かすのです。
自由と言う感性をまず得てから、その精神を拘束しないように肉体をならしてゆく。
これが私の行っている武術です。