時々、この何十年かの間に買い集めた古い武術本を見返すことがあります。
当時は理解できなかったことからも、いまなら見えてくる物があるからです。
これは当然のことです。一流の先生方がしている話が、まだ師父になっていなかった頃の私にわかるはずがない。
高級な物事を理解するには一定の教養が必要です。
いま師父となり自分でも日本における武術研究のせいかをこうして時々書くようになって、ようやく読み取れる物に先日も出くわしました。
その記事では、日本で一番の正統派の鶴拳の先生が「虎鶴双形こそが鶴拳の肝要」だと言っていました。
何気なく見過ごしてしまう一文ですが、中国武術の見識に一定の土台があると非常に重要な言葉で、大変に驚かされました。
鶴拳なら虎の要素は無くて鶴だけではないのか、と思ってしまいそうなところですがこの虎鶴双形と言うのは一定の文脈における決まり文句なのです。
南派武術における最大の名門である洪拳にある洪家三宝と呼ばれる重要な套路に、まさに虎鶴双形拳というものがあります。
これは林祖と呼ばれる偉大なマスターが設定したもので、虎というのはそれまでの洪拳、鶴というのは蔡李佛拳を意味していて、二つの派の特徴を合一したためにこの名を付けたというのが定説であるようです。
もともと、蔡李佛拳はそもそも洪拳より派生したもので、同じ洪門武術の中でも特に洪拳に近いもので、私としてはほぼ同じものだとみなしているのですが、歴史的に一度分派してからまた虎鶴双形で融合した とみなせばよいのでしょう。
そもそも、嵩山少林寺の拳法の特徴は虎拳と猴拳に分類されるのだと言います。
おそらく、この虎の要素というのは虎抱頭と呼ばれるような接近戦術のことではなかろうかと思われます。
これは北では餓虎撲羊、南では餓虎禽羊と呼ばれているものと同一だと想像しています。
猴というのは通背、あるいは通臂と呼ばれる勁力の構造であると思っています。
これは南では線、鉄線と呼ばれており、体内に勁の道を通す重要な根幹構造です。
経絡を通す勁の運用法と言ってもいい。
この猴の要素が伝播の過程で鶴と呼ばれるようになっていったというのは、以前にこの場でも挙げた仮説です。
猿と鶴では全然違うじゃないかと言うかたもいらっしゃいそうですが、これ、実は違わないのです。
少林の猴拳は短打の猴拳ですので腕を短く折りたたんでいる印象があるかもしれません。
しかし、猴拳の中で有名な通背拳には長打の物もあり、一見猴には見えないほどです。
さらには日本で名前は有名な劈卦拳も、実は猿拳類です。
同じサルでもテナガザルなのです。
そうなってくると、ほら、鶴が大きく翼を広げたように見えるでしょう?
香港には大聖劈卦拳という門派があって、うちの師父も修行時代には仲良くお付き合いしていたようで、もらったというロゴの入ったスゥエットをよく練習に履いてきています。
大聖とはご存知斉天大聖、孫悟空のことです。猴拳類は孫悟空のあだ名の孫行者に由来して、またの名を行者門と言ったりするそうです。
この、短拳と長拳の二つの猴拳をそのようにして虎と鶴に含んで虎鶴双形が成り立っているわけですが、この話を踏まえて元の鶴拳に戻ると、福建派の鶴拳は小さく構えた短打の拳法ですね。
外見はそれほど鶴っぽく見えないのは、この辺りの経緯があってのことではないかと思っています。
この、福建単打拳法群ともいえる鶴拳類の一派に、白眉拳というのがあります。
これは古伝の詠春拳に近い拳法なのですが、連打ではなく一発の威力特化の狂猛な拳法で、残酷だと非難する人は多いが弱いと言う人は一人もいない、として知られているものです。
この拳法、時に両手を広げる動作も入っていて、長短どちらの鶴拳の要素も入った物だと感じられるのですが、面白いことにシンボル・アニマルが虎なのです。
やはりここにも虎鶴双形が垣間見えます。
このようなコンセンサスは武林の歴史上の文脈からうかがえる物なのですが、日本のように地続きではない場所ではなかなか知れるものではありません。
しかし、この視線から振り返るとまた一つの対偶が取れます。
日本で特別に人気のある八極拳は、典型的な虎の拳法です。
もともとは回族武術であって少林拳ではないのですが、少なくとも現代に残っているものは虎の風格が非常に強いように思われます。
この拳法、前述の劈卦拳を併修することでも知られています。そう、中国の武林のコンセンサスとして、やはり虎鶴双形をして一つのコンプリートという皮膚感覚があるのだと思われます。
また、ある一派ではこの拳法の由来は、白猿の動作にちなんでいるという言い伝えもあるそうです。
これは発勁にともなう歩法のことを言っているのかもしれません。
一般にはそれは猴ではなくて熊歩と言うことが多いようなのですが、中国武術の世界では猴形の大形を熊形と言うのです。
ちなみに虎形の小形は豹形です。
その豹でいうと、我らが蔡李佛のアイコンとなっている動物は豹なのです。
おそらくは姜子錘という独特の拳の握り方が豹形手だからかもしれません。
小さな虎だけではなく、大きな虎も多用されます。
https://www.youtube.com/watch?v=bS3Kv6m1XGo
虎爪と言って、打ったり引っかいたり相手を捕まえて抑えつけたりするのに使います。
この、捕まえて抑えつけることを虎撲と言ったりします。
餓虎撲羊の真ん中の二文字ですね。
さらには、普通は横向きに虎爪を使うことを鷹爪と言うのですが、うちでは虎爪で一貫します。
これはもしかしたら、清朝に反乱する組織での調練に使われていたので、彼らのシンボルである鷹を入れたくなかったからかもしれない。
五獣の法則でも、虎、鶴、蛇、豹ときて普通は入っている龍ではなくて象となっているのも、皇帝の象徴である龍を避けた可能性があります。
五獣の中に入っている鶴で面白いのが、これ、うちでは鴻という伝説の取りと重ねあわされているところです。
鴻とは荘子に出てくる巨鳥で、鳳凰のことだとも言われています。
我々の流派は蔡李佛の中でも鴻勝派と言いますが、この鴻は音がホンであり、洪門の洪と同じになります。
鴻勝派の母体は洪聖派と言い、こちらにはもろに洪の字が入っています。
どちらも成立段階で洪門の後押しがあったためであると言われています。
武術の門派の起式や収式には、その派の来歴や行っている人の身分を示す動作が含まれていますが、鴻勝蔡李佛ではまず虎爪を行ったあとに、大鳳天翔という動作につなぎます。
これは雅号で、初学の内は白鶴亮翅と言ったりします。ここでも鶴と鴻の同一視があります。
とすると、鶴とはすなわち洪門の象徴であると言う見方もできるわけです。
そこから見るなら、虎とは龍を撃つ獣であり、龍と鳳凰と言うのは対の生物ですので、反乱結社の武術が正統として虎鶴双形であるというのは実にうなずけるものとなります。
この辺りの学識に照らし合わせれば、創作や傍門の類との区別がつきやすくなってきます。