ラジオで、ベテランのカメラマンさんが話しているのを聴きました。
その方はロック・スターの写真をずっと撮ってきた方なのだそうですが、そのきっかけとなったのは修行時代にNYに居た頃にあったそうです。
地下鉄の駅にいると、向こうから名の知れたミュージシャンが歩いてきたのだそうです。
その姿が自然でとても感銘を受けたカメラマンさんは、日本人らしく、そのミュージシャンに私はこういう者なのですがあなたを見てとても心を打たれたので写真を撮らせてもらっても良いですか? と許可を求めたのだそうです。
するとそのミュージシャンはこう言いました。
「なぁ君。君が撮りたいと思ったものはなんでも撮るんだよ」
これは反芻するたびに鳥肌が立つような言葉です。
その言葉に彼は解放されたのだと言います。
この解放という言葉にとても伝わる物を感じます。
彼話したもう一つのエピソードに、街を歩いていたらものすごくオシャレで髪型もかっこいい黒人の青年を見つけた時の物がありました。
「撮りたい」と思ったのでシャッターを切ったところ、その青年はニコっと笑って「THANK YOU」と言ったのだそうです。
日本だったら、突然写真を撮られたら何かいかがわしい意図があるのではないかとか、侮辱をしようとしているのではないかと感じてもおかしくないところを、その青年は自分への賛辞だと受け止めて礼を言ったのです。
これは、解放された者同士のすれ違いというか、お互いに出来る者同士の感性の触れ合いのように感じます。
そのようなところに、世の中の解放感のようなものがあるのだとカメラマンの方は言われていました。
私がいつも言う、タオにおける「自由に生きる」というのはこのようなことだと思います。
「本当に望んだこと」をしてゆくとき、人は「本当に生きる」ことになるのではないかと思います。
そのためには、上辺の自我による拘束から自分自身を開放してゆくことが必要なのだと信じています。
自分が本当に望んでいることはなんなのか。
それは自分自身とまっすぐに向き合わないとわからないのかもしれません。
お金になるようなパパラッチ写真や、わいせつな覗き見写真を撮ろうとしている間は決してたどり着けない境地というものが人間にはあると思います。
自分が本当に撮りたい写真を撮るべきです。
自分が本当にしたいことをして、自分が本当になりたい者に人はなってよいのだと思います。
そのためには、本当のことと共に生きることが必要なのではないでしょうか。
その第一歩は、本当に立つことではないかと思います。
きちんと自分に向き合い、自分の命を立てることを始めたとき、次に踏み出すタオが見えてくるように思っています。