非常に奇妙な小説「ラッキー・ワンダー・ボーイ」を読み終わりました。
スピルバーグ監督の「レディ・プレーヤー・ワン」にも通じるレトロ・ゲーム愛の感じられる小説だったのですが(同じゲームのイースター・エッグについて描写が在る)、やはり同じように自己批判性の感じられるとてもおかしなお話でした。
主人公はアメリアのレトロゲームマニアの青年なのですが、彼がまぁインチキ野郎で、アメリカでは雑魚なのですが旧ソ連に行って美女を手当たり次第にむさぼるようなヤツです。
彼女たちをひとまとめに同じ名前で呼んで、その人間性に触れることが無い。
ここに私が、ここのところ書いていることに通じる部分がありました。
彼はレトロ・ゲーム・オタクであると同時に、やはりちょっと発達障害っぽい。
そしてそこに現れる作者の意図としてなのでしょう、他人を自分と同じ独立した一人の人間とみなすことが出来ません。
旧ソ連との対比としては資本主義の人間の特徴としてはその部分を描き、またキリスト教圏の人間としてはそれを作中では禅と対比して描いています。
ゲームオタクという部分がカリカチュアされすぎているようにも思いますが、彼はすべてのこと自分の克服するべき個人的なゲームだと見なしている。
アメリカでIT関係の会社にライターだと経歴を詐称して入社した後も、まったく仕事をせずにひたすら社内にあるゲームをしてさぼってお金を稼ぐことだけに専念しています。
このゲームがモータル・コンバットみたいな奴で、彼は自分を登場キャラクターの侍になぞらえていて、会社のボスをゲーム内でのボスであるファラオのキャラクターに投影しています。
明らかにやる気なくただ金をかすめ取っているだけの詐欺社員なのになぜかそれに目を光らせている社長を、自分の利益を脅かす存在だからという理由で悪者だと決めつけている。
読者としては、それはお前が悪いんだろ、とちょっとついていくのがしんどくなってくるのですが、そんな彼にも曲がるべきカーブが訪れます。
伝説的カルトゲーム「ラッキー・ワンダー・ボーイ」の映画化権を会社が買い取ったので、どうにか自分がそのシナリオに参加しようと頑張り始めます。
とはいえ、やっぱりそこはインチキ野郎。
やり方が極めて自己中心的です。
勝手に制作者との間に入ろうとしたり、内部工作を行ったりと我儘の限りです。
そのようにして政治的に暗躍することでさらに新たな事実が判明してきます。
「ラッキー・ワンダー・ボーイ」の映画化は、実は話題を作ってトレーラーだけ発表して実際には制作しないという株価操作のための策だったことが分かってくるのです。
そんなことは許せない主人公は、ラッキー・ワンダー・ボーイのシナリオを勝手に書いて直訴に挑もうとするのですが、肝心の本編の資料が圧倒的に足りない。
そこで彼はゲーム機本体を求めてさまよいます。
と、ここでなんだか村上春樹の小説のように感じてきましたが、実際に作者は日本大好きで、村上春樹のファンなのだと言います。
それと関係するのでしょうか。この小説にも戦中の中国と関係する、中国での寸刻みの刑に関する作中作が出てきます。
最終的に、その拷問の小説においては、肉体を解体されることによるエゴからの解放、解脱が書かれます。
一方の主人公は、ラッキー・ワンダー・ボーイはシュールすぎるゲームで誰もクリアした人間が居ないということにたどり着きます。
一定のステージに行くと、画面が鏡状になり、プレーヤーの顔が映った後、フリーズするというのです。
煮詰まった主人公は、社内においてハルキの小説の主人公がバットをふるったように斧をふるって偽装泥棒を働き、社内の文書とパスポート、旅券を盗んで日本に居るラッキー・ワンダー・ボーイの制作者のもとに向かいます。
恋人や仲間を捨ててそうする主人公に、ヒロインは「自分勝手なエゴイスト」と言い捨てて去ってゆきます。
主人公は京都を訪れ、ゲームの製作者に真相を聞き出そうとするのですが、そこで物語はメタな芸術性を発揮します。
制作者にあしらわれたところで一端物語は終わり、「リプレイ」と表示されて物語の途中からコンティニューが行われます。
そのたびにどこかで失敗をし、そしてまた途中からのコンティニューが繰り返されますが、主人公は決して目的にたどり着けないまま多元世界をさまよい続けて物語は終わります。
自分自身を見つめることが出来ず、自分の欲求を叶えることにだけ囚われて行動し続けた人間は、どこにもたどり着けづにさまよい続けてゆく、ということなのでしょうか。
禅と西洋思想の対比という意味では非常にラディカルですが、興味深い小説でありました。