外部の気と適応するために、兵器の対打を行うということを書きましたが、この兵器の種類を変えるのも面白い試みです。
日本と言うのは、情報は氾濫しているけれども本物に会うのが難しい国だということを聴きました。
きっと武術が好きな人たちは、映画や本、あるいはゲームなどで沢山の兵器を知っていることでしょう。
三節棍や拐、胡蝶双刀などの兵器は、あるいはただの体操としての用法であるなら表演競技やスタントのパフォーマンスなどで見たことがあるかもしれません。
しかし、本当の伝統的な用法を学べるところはまだまだこの国には多くないことと思われます。
ヨーヨーやけん玉のような形で自己流で振り回し方を研究して人に教えたりしている人もいるようですが、それでは何も分からない。
我々蔡李佛は蔡李百套と言われるように非常にたくさんの内容を含んでいますが、その半分以上は兵器に関するものです。
そしてここからさきが、まだ中国武術未開の地である日本では理解されていないところだと思うのですが、残りの拳術の部分も、基本的には兵器の練習だともいえるのです。
日本には割と特殊なタイプの武術が先行して上陸したためか、その辺りのスタンダードな考え方がいま一つ浸透していません。
「拳術は兵器の基礎を練る物であり、実用のおりには徒手ではなく兵器を使う」と倭寇の時代にすでに明確に書かれており、江戸時代にはすでに知識として普及していたにも関わらず、実伝が伴わなかったことが引っ掛かってしまったことであるかと思われます。
奇門兵器や暗器と言った物の多くは、拳術で発勁がある程度できた上で使わないとその本領が発揮できないところがあります。
素人が見よう見まねで行ってもやはり本当のところはわかりません。
しかし、土台としての勁の運用そのものが未開である状態では、当然兵器が普及しようはずもない。
これではフィリピン武術と南派武術の兵器との共通性に関する研究など進みようがない。
その一方で素人の間違った創作が広まってゆく。
混迷の限りです。
そこを改めて原点に戻って、中国武器術と拳術の関係を見直してみると、おそらくは日本人の固定概念とは違うものが見えてきます。
例えば兵器の套路にしても、我々の考えでは〇〇刀という兵器を使う套路があったとしたら、それは刀を使う套路だとは限りません。
だいたい刀と似たような形状やサイズの物全般の用法となっています。
鉄鞭でもいいし傘でも杖でもいい。
これは師父からもそう習いましたし、また、香港の先生の中にもAB刀という名前の套路をAB短棍と称して刀サイズの棒で行っていたりすることはままあります。
これは創作ではありません。
もともと門派としてそのように出来ているのです。
扇として名前が付けられている套路なら、匕首でも鉄筆でも良いのです。
それくらいのサイズの物を兵器として使うための練習方法として套路は設定されています。
拳術もしかり。
不思議な動きをする套路だなあと思っていたら、ある種のカテゴライズの奇門兵器の用法を練るために役立つものであったりすることがわかります。
乱戦の戦場や、潜入している敵地の都市で身の回りにあるものを手当たり次第調達して活用しないといけない革命軍の武術では、それは当たり前のことだったのです。
現在のうちのカリキュラムでは、拳術の基礎を終えた人は用勁の段階に入り、それと並行して兵器を学んでゆきます。
二つ目の徒手の套路を学べば卒業扱いです。
いろんな拳術の套路はありますが、それはそんなにたくさんやらなくても構いません。
ただ、二段階目の拳術に至るまでには勁をしっかり学ぶために一定の時間が必要になります。
その間に、オモシロ兵器はいくつも学び放題です。拳術の兵器アレンジの応用法を拡張してゆきます。
そうやって、香港映画のように長い物から短いものまでその場で調達して使うという南派武術のスタンダードな功を練ってゆくという次第です。
https://www.youtube.com/watch?v=H3k5ekA7sgw