先日、テラス・カシとジェダイ武術の関係について書きましたが、武術には下地となる流派の存在がありえます。
これは実はけっこう見落とされがちなことです。それも意図的に。
どういうことかといいますと、私の友人だった男のエピソードを紹介しましょう。
まだ20代頭で、古流柔術の修行の一環で私がグローブ格闘技や総合格闘技の道場に通って研究をしていたころ、仲間内の意志の弱い男がただ、真似をしたいというだけで自分も同じところに出入りしたいなどと言ってきました。
こちらは本気でやっているのでそんな幼稚な気持ちで来られても大けがするだけだし迷惑だからまず最低限練習についてこられる身体を作ってから来いとトレーニングのメニューを作ってやると案の定数日で挫折。
彼は「いいよ! じゃあ酔拳を体得してくる」と中国武術の道場に足を向けました。
そこで彼は老師に酔拳の教授を希望したのですが、それには基本の長拳が出来ないと言われ、どれくらい長拳をやれば教えてくれますかと訊くとニ、三年とのこと。
そこで彼は「じゃあいいです」と返答。
結果、「それならこれがいいから八卦掌をやりなさい」となんの興味もないものを習うことになりました。
まぁそれはいいのですが、結局、基本の長拳が出来ておらず、突きがなんなのか蹴りがなんなのかもわからない人間がそんな高級武術を習っても形だけにしかなることはありませんでした。
前に引き合いに出したので今回もそうしますが、日本で普及している太極拳や八極拳にしても、もともと少林拳や長拳を何年か学ばずにやる人などはまず存在しないそうです。
最低限の武術の基本と実力をつけてから高級な内容の門を学ぶようにそもそもが出来ているのです。
私にこのことを教えてくれた先生は「原付も乗れないのにヘリコプターが操縦できるようになる訳がない」と言っていました。
これは日本武道でも同じことです。
そもそも古流の柔術などは相撲を基礎として日常的に取っていたり、剣術などを使う人々が行うものだと聴きます。
剣や相撲から柔を切り離した柔道は、その代わりに柔術的な高級技法を中核にはおかずにレスリングの技を中心に創作されました。
これは誰にでもすぐに出来るようにという嘉納先生の発案です。
琉球拳法を元にした本土の空手道も、最初に創作したのが剣道の先生方だったため、足さばきはそのまま流用されました。
すなわち、素手でおこなう剣道というコンセプトです。
そのために砂を噛むような指使いなどは消えますし、当てられながら反撃する技法もおろそかになって当てられない動きが重視されます。
そうやって、中国の言葉で言う様板武術、すなわち板の上の競技となってゆくのです。
これは均一のレギュレーションの上で参加者みんなに公平なスポーツを行うためには当然のことです。
このようにして設立されていった空手道はその後もどんどん時代ごとに競技性に多様化が訪れ、キックボクシングや寝技が取り込まれて行きました。
これが冒頭にしたお話です。
現在の平均的な空手道を一人前に行うには、キックボクシングの技量がなしには話にならない。
これは当然のことです。
ミットを蹴り、グローブやパンチング・グローブの遣い方を覚え、キックボクシング式のコンビネーションやステップワーク、呼吸法を身につけないと空手道の形にならない。
指先蹴りも貫手も無構えも運足も調息も用済みです。
昭和の完全な格闘技化の前の世代の空手道家が「あんなのは空手じゃない」などと負け惜しみを言っても無駄です。その人達だって琉球拳法なんてびた一文出来やしないのですから。
もはや現代の空手にはキックボクシングの下地が無しには成立はありえません。
いまの若い人たちにはあまり知られていないようですが、昭和後期の古武術においても同様のことが起きていました。
古流柔術、古流剣術の先生というのは、柔道と剣道の段をまず持っていた。居合術なら現代式の居合道をやっていた。
古流の身の使いではなく、現代格闘技の下地の上に型を保存していたというのが実態です。
私が所属していた古武術団体では、入門するとまず提携の現代武道教室に案内されて、一年前後掛けてそこで初段を取るまでは道場に入れてもらえませんでした。
現代式を覚えて基礎を積んでから初めて古流を教えてもらえるという考え方です。
90年代以降の新古武術ブームが始まってから、古武術には何か特別な動き方があるのではないかという見立てが盛んになっていますが、もともとはそんなことはありませんでした。
それはあくまで一部のマニアが作った視点であって、ほとんどの古武術家というのは単に現代武道の動きで古武術の技を使っていただけです。
だからこそ、禁じ手や秘伝の手、殺法などというものがあるのだという凄みがもたれていたというのが一般的な当時の見方でしょう。
動きではなくて、危険な技を練習しているのだ、ということです。
そしてそのような技は知ってしまえば簡単に誰にでも出来る物であって、だからこそ恐ろしいのだというのがわりに当たり前なこととして語られていました。
しかし実際のところ、そのような技術が本当にすごく役立つということではないというのが現在までには分かってきています。
受け身の取れない逆投げの投げ殺しというのも相手が柔道の巧者であるなら組み手争いな投げを放つまでに逆に投げられてしまう。
途中で変化する秘太刀も、剣道の高段者の速度には追い付かない。
霞(目打ち)や釣り鐘、発破の当てなども、目に見えないほど速いジャブの攻防をしているボクサーや得意な間合いでいくらでも死角に入るステップを踏めるキックボクサー相手には、わざわざカウンターをもらいにいくような物になります。
だから、古武術独自の動きも結構ですが、まずは絶対に現代武道的な訓練というのは必要なのです。
そうでないと現実が見えません。ただの妄想の肥大化にとどまってしまいます。
私たちがカンフーと並行してその簡化武術であるアルニスを行うのもそのためです。
内功などの要素がなくても、基礎の物理的な動作だけで一人前に攻防が出来る下地は絶対に必要なのです。
中国武術家でフィリピン武術が実戦的だなどと言う人がますが、それはその人が基本をきちんとやっていないというだけのことなのではないかと不審を抱いてしまいます。
並みのフィリピン武術家くらいの地力があってから、初めて中国武術はスタートです。
日本の中国武術家はひ弱すぎる。これはもう80年代くらいから言われていることです。
元のフォーマットが違うのでキックボクシングを覚えてからやるべきだとは思いませんが、生まれてから一度も撲ったことも撲られたこともない、痛みも知らないというのでは武術という物がスタートしない。
もちろん、本物の上乗の武術をやるうえで強弱などは関係ありません。
ただ、事実を過不足なく知るということは真実を追求する学問を学ぶ上で必要不可欠です。
そこで私はアルニスの体得をマストにしているのですが、実は中国武術には空手やボクシングより柔道やレスリングを学ぶほうが役に立ちます。
そちらの方が身体の遣い方としては近いのです。
これは自分の身体以外の荷重を操作するという部分が関係しているのかもしれません。これは兵器の武術にも共通します。
中国北派武術の基礎を作ったともいわれる騎馬民族の武術も、弓術と馬術とレスリングです。
西洋では撲ると投げるは分化されてボクシングとレスリングとして別々に発展しましたが、中国において相手を打つとは実は、撲るように打つのではなくて投げるように打つのです。
防身術や競技としてではなく本当に伝統中国武術を知りたいのなら、三年程度かけてこれらを学ぶのが実は近道であると思います。
学生さんたちによく言うのですが、私は柔術やレスリングをやっていて本当に得をしました。重力や相手の力の流れが習性的に感じ取れるようになりました。
子供の頃から成人までやっていた空手は、逆にすべて捨てなければカンフーの本質を掴むことは出来なかった。
琉球拳法の仕合巧者と言われる人の話など読んでも、実は沖縄角力の研究が役に立っていたなどと言う話もあります。