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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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のびた君とキテレツ君

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老荘思想というのが、自由に生きるための思想であり、我々の少林武術とはそのためのエクササイズであるということを書きました。

ここで言う自由とは、「自」らに「由」来する、という意味で、あらゆる感じられる出来事は、自分自身の感覚によるものだと言うことです。

そのような気持になると、心頭滅却すれば火もまた涼し、というのはかなり仏教や修験の荒行のように感じてしまいますが、それはあまりに極端なケースと言えども、実際に暑い夏に呼吸の仕方によって少し体感温度を下げたりするようなことは気功によって行います。

それでも信じられないというような方のために具体的な例をあげますと、打ち身などに貼る湿布薬で、腫れを冷やすような物がありますね。

いまは薬も進化しているのでまた違うのかもしれませんが、昔売っていたものの中には、ミントですーすーとした気分にさせているだけで、実際に温度そのものが下がっている訳ではないものがありました。

もちろん、詐欺ではありません。それでちゃあんと効果があるのです。

自律神経が冷感を感じれば、実際に冷えているのと同じように血管が収縮し、腫れは引いてゆきます。

これが気功の仕組みです。自分の感覚を操作して実際に現象を変化させることは可能なのです。

また、そこから派生した漢方を合わせて使うなら、やはりミントのような冷感のある植物を貼るということになります。

これと逆の例では、寒い時に靴下の中に唐辛子を入れて血行を促して温度を上げるという物もありますね。

このように、自分の感覚を操作するという点に着目すると、意外に本当に自由になれる幅というものはあるものです。

とはいえ、体育会系的なポジティブ・シンキングやスピリチュアルのようなものとは決して混同しないでください。

行なくして目先の気持ちの切り替えだけで気分を操作するというのは、薬物の乱用のようなものです。きちんと処方がないのに気持ちよくなる薬を場当たり的に投与しつづけるのは非常に危険なことです。

本当に手の打ちようがない場合を除いては、麻酔を用いたなら次に適切な対処を行うべきです。苦痛を感じなくなったからといってそのまま放置ではより症状が悪化してゆくのを放置しているばかりになってしまいます。

気持ちを静かにさせながらも、実際に自分の命や暮らしを静かに育んでゆくことが行の本体となります。

そうして目指すのが、安心立命(あんじんりつめい、または、あんじんりつみょう)という目安です。

ただ心が安らぐのみならず、自分の命がきちんと立つということ。あるべきように自分の本質の性のあるべきかたちで生きられるようにする、ということです。

このような状態が天にかなった命のありかた、すなわち天命と呼ばれます。無為自然、天人合一とはこのようなことです。

現状から目をそらすためだけのお呪いをとなえて自己催眠を塗り固めてゆくポジティブ・シンキングやスピリチュアルでは決してそうはなりえません。

それらの果てにたまたま社会的成功や自己実現などを得ても、本質である自己が変わっていないのですから、必ず虚しさから逃げられないはずです。

その大切さを示すのが、みんなの大好きなドラえもんに出てくるのび太くんだと感じます。

彼は毎回、なにがしかの欲求を持ってドラえもんに頼るのですが、それは常に社会的な欲求です。

自分自身の本質から湧き出てきた欲求ではありません。

対して好きでもない野球で活躍していい格好をしたいとか、平素山が趣味でもないのに友達がハイキングに言ったからうらやましくなるとか、本当の自分の欲求ではなくて社会的なステータス上での欲求です。

嫉妬や虚栄心、逃避願望に攻撃性など、常にほかに対象があって、それに反応する形でしか動いていません。

そのために、それらの欲求がかなえられた結果、足りるということを知らずに欲望に取りつかれて破滅するまでいってしまうのです。

自己の内から訪れていない願いは、そもそもが自分自身の物ではないのでとどまることがありません。

彼と対象的なのが、キテレツ君です。

彼は発明が大好きで大好きで、自分のお小遣いをやりくりしては好きな発明に没頭している、非常に自己の確立された少年です。

野球がうまくなくて馬鹿にされても、それは自分の持ち分ではないのだからと理解しています。

この、自分の欲求をきちんと理解して自分の人生をきちんと生きている、ということが大切なのです。

彼のような生き方のことを禅では三昧と言います。彼の場合は発明三昧ですね。これは禅においては大事な暮らしのありかたとされています。

日常の作務や行などで、夢中になって何かに集中しているということが大切だそうです。

のびた君とキテレツ君、二人を取り巻く人々は大変に似通っています。

しかし、彼らの人間関係はまったく違っています。

のびたくんの周りの関係は常にストレスフルできわめて敵体性の強いものですが、キテレツ君のはまるでそうではありません。

キテレツ君は運動はできないけれども、尊敬され、頼りにされています。キテレツ君自身も仲間の一人一人の人間性を認めて、快く彼らのお世話をしてあげており、ある意味でお兄さんやお母さんのような包容力のある存在でいます。

これは、彼が物質的に発明を行って役に立つからではありません。現象面だけでいうなら、のび太君もドラえもん経由でいろいろな物持ちでありますが、決してそれによって尊敬はされていません。

キテレツ君は、自分自身を持っているということが重要なのだと思います。

彼は自分が好きなことを自分自身の中核としてきちんと持っていて、独立した命として生を一貫させています。

そのしっかりした人間性が尊敬と信頼を得ているのでしょうし、彼自身も自分がしっかりしているから、他人を思いやる心を持てているのでしょう。

同じような人々に囲まれていても、自己を立てて生きているか居ないかで、これだけ住む世界は変わるのです。

このことが、気功の、そして老荘思想や禅の根本に説かれていることです。










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