前回、アメリカのゾンビはアメリカの民話だと書きましたが、今回も同じくアメリカの民話についてお話しましょう。
と、いうのも世界的な産業として映画と言えばハリウッドというように、映画産業そのものがアメリカの民話を映像化するものだから、映画に出てくるようなモンスターを語るにはどうしてもアメリカの民話というものが重なるのです。
現在はインドの方が映画産業の規模は大きいようですが、それが世界的に配給されるようになると、インドの民情や神話と言った文化が世界に広がることでしょうね。
逆に言えばそのような民族や文化に伴う背景が無いからこそ、アメリカの民話というのは世界のどこにでも広まりやすかったのかもしれません。
このホラーシリーズで、最初はドラキュラ、次に同じく噛みついて繁殖するという行為の後継者となるゾンビについて話してきましたが、今回はまったくそれらとは違うタイプのホラーをご紹介します。
それは「スラッシャー」物です。
スラッシャーとは切り裂き魔というようなものです。ドラキュラと同じく19世紀ヴィクトリア朝のイギリスにいた、切り裂きジャックやスイ―二―・トッド(どちらもジョニー・デップにて映画化)の後継者と言えるかもしれません。
また、さらにさかのぼると英仏戦争の英雄、ジャンヌ・ダルクの旗下にあった武将ジル・ド・レをにまでたどれる流れかもしれません。
ジル・ド・レやエリザベート・バートリまで含めると、このスラッシャーというタイプの怪物は実はヴァンパイアの元ネタのような人々だ、ということも可能で在る気というがしてきます。
すなわち、スラッシャーとは人を切り裂くタイプの殺人鬼ということで良いのではないかと思われます。
アメリカでもっとも古典的な民話的スラッシャーは、1960年の映画「サイコ」のノーマン・ベイツでしょう。おっと、ここからはネタバレがありますからご注意を。
ヒッチコック監督のこの白黒映画は、非常に不思議な作品です。
私もテレビで観たときに感じたのですが、前半と後半がまったく違う話のように見えるのです。たとえるなら水滸伝が武侠物からいつの間にか合戦物になっていたり推理物や人情ものにスライドしている時のような感じの部分があります。
前半は、不倫関係にある男女の話から現金略奪というピカレスクとして展開します。
そして逃亡した先で田舎の道端にあるモーテルで殺人が起きます。ここでスラッシャー登場、これが映画史に残る怖いシーンと言われていて、白黒映画なのに流れる血が真っ赤に見えたと証言する人が続出しているほどに緊迫感と残酷さが迫ってくる場面です。
その後、盗まれた現金と逃亡した犯人を捜して探偵と被害者の妹がそのモーテルにたどり着き、調査をしている過程で実は管理人の青年ノーマン・ベイツが犯人だったということが判明する、というのが映画の大筋です。
この映画には、伝説の吸血鬼も恐ろしい病原菌も出てきません。ただの犯罪が連続するだけのサスペンス映画であり、これだけ聞くとホラーのようには聞こえないかもしれません。
しかし、この作品を歴史に残る物にしているのは、もう一つの伝説的なシーンです。
それは、初め、このモーテルが宿泊客を殺害する殺人ホテルだと言うことが分かる段階では(と書くと本当に水滸伝みたいでしょう?)、モーテルには管理人のノーマンと、黒幕であるその母親がいるように見えます。
暗い部屋の中で、背中を向けて話している母親の姿が見えます。
怖いシーンと言うのは追跡者たちがこの母親にたどり着いたシーンで、振り向いた母親の姿というのはかつらをつけて女性の服を着たノーマン青年その人だったことが分かるというところです。
つまり、そこまで二人いると思われていた母子は実は一人で、息子の方が変装をして一人二役をしていたのです。
だからタイトルが「サイコ」。
つまり、スラッシャー物とは、これまでのドラキュラやゾンビのような、マイノリティが人権もったら怖いなとか思想の転換という社会的ムーヴメントについていけないなという問題ではなくて、一言でいうなら「狂ってる人怖いよね」というお話なのです。
思い出して下さい。ドラキュラ編でやった彼らの軍勢の構成員を。
死んだ東欧貴族で伝説の化け物、女性、そして精神病院の患者です。
それらのマイノリティ連合のうちの、最後の一つ、精神障碍者が攻めてきたらどうしよう、というのがこのジャンルです。
つづく