スラッシャー映画の特徴は障碍者が襲ってくるということであり、その基調は信仰にある、ということを書きました。
これは、アメリカの成り立ちと直結しています。
テキサス・チェーン・ソー、エルム街の悪夢なども含めて、スラッシャー映画に共通するのは「相手の領域に入ると襲われる」ということです。
これは開拓時代から続くアメリカの「他人の領土に入ると殺される」という禁忌への警告が寓意になっているからだそうです。まさに民話の本領発揮ですね。
そしてそこに入ると、ただ殺される。殺されても誰も得しない。むしろ殺した相手がその後報復にあって破滅したりする。そういう、いわば起きなければ良かった遭遇というものが描かれます。
その出来事は神様の意図としか言えないような物があります。
それは、なぜ障碍者が生まれてくるのか、という問いへの答えと共通するものです。
ここに来て再び、アメリカの民話は資本主義や思想の兼ね合いから、それらの生み出した階層社会そのものを否定して原点の信仰に立ち返るのです。
その証拠として「サイコ」を除く13金以降のスラッシャー映画の定番というのは、スクール・カーストの典型と言う物がまず登場します。
その中で、もろに支配欲の強いジョックスや女だしまくりのクィーン・ビー(チアリーダー)と言った階層の連中、またはぐれ物の不良、そして普通はその中には居ないだろうと言うオタクたちが顔を見せたりしながら、順繰りにスラッシャーに殺されてゆきます。
最後に生き残るのは、通称ファイナル・ガールと呼ばれる貞節で心の美しいヴァージンとなります。
これは、神の意図意外に何もうかがえることのない障碍者による無意味な災厄に対しては、あらゆる資本も試算も運動能力もおよそ無意味で無力であるということです。
ただ、神に近しい物だけが許されて試練からの生存がかなうのです。
ドラキュラやゾンビで取り上げられていた、近代化や科学という哲学的価値観から回帰して、信仰心という価値観で描かれた世界が描写されているのです。
一言で言うと、社会の負け犬と言われている層のための映画です。
そのような人々が、トランプ支持層のクリスチャンたち、ということなわけですね。
人間の思想が作った資本主義的社会階層を破壊して、白人のための神様の価値観のもとで生きたい、という願望がそこには垣間見えてきます。
さて、次回は「エイリアン」を扱ってみたいと思います。