昨年の夏終わり位から、点馬での勁力と棍に重点を置いて練功していたところ、勁力に大きな徳が見られました。
馬を大切にして、それで兵器を練ると大変に功が強くなります。
刀は父、棍は母とうちでは言われていますが、実際、少林武術として考えたときに、拳術の源流は棍であったということができます。
そもが、少林寺で行われていたのは、気功と棍法だったのではないかと私は考えています。
病気やケガから身を守るためにヨガ(気功、瑜伽行)が行われており、獣や賊から寺を守るのに棍が行われていた、と思っています。
その棍が知られて僧兵化してゆく過程で、周辺の武術家と交流して、少林武術の体系ができていったという話を読んだことがあります。
「すべての武術は少林より出ず」という言葉がありますが、実際にはそのすべてがインドからもたらされた訳ではなく、土着の北派武術が研究されて少林で再編集されてさらに広まったという経緯が思われます。
そののちさらに、現在知られるいくつもの名門各派で再体系化をされ、弊習や合一化がされている形跡が見られます。
その代表の一つが蟷螂拳で、みるだに即戦性を重視した強力な拳法のように感じさせられます。
我々蔡李佛拳も、同様にいくつものルーツから再編纂されたものですが、そのうちの一つ、白鶴拳はまたの名をラマ拳と言い、臨済宗の僧侶に伝わっていたものだと言われています。
ここのところ、うちの派がフィーチャーされた香港映画をいくつか見ていたのですが、どれも妙に抹香臭いのはそのためかもしれません。
私自身も、その、哲学の教えを決して離れないところがもっとも好きなところです。
仏の教えと言うと、なんとなく年寄りくさい物のように現代日本人は印象しがちかもしれませんが、実際はかなりパンキッシュでアナーキーなものです。
インドから中国に仏教の再渡来をもたらした唐の玄奘は、非常に苛烈な人物であったと言われています。
世界的な国際都市であった唐の都に自分以上に経典を理解している人間が居ないと感じた玄奘は、自らインドに行って学んでくる他、中国仏教の未来は無いと考えて旅立ちました。
これは当時では禁止されていたことであり、いわゆる密出国となります。
途中、インドで修行をしてきたほかの国の僧たちのもともめぐるのですが、それらの僧侶たちの理解も自分に及んでいないのを感じると、露骨に態度に出たのだと書き残されています。
いまでいうクチャに居たモーシャグプタという高僧の名を慕って面会にゆくのですが、それに同行した従者の記録には「法師ははじめモーシャグプタを深く尊敬していたが、その言葉を聞いてからは彼を見る目がと土くれを見るような目になった」とあります。
モーシャグプタはインドに20年も居て仏教を修行した高僧だったのですが、会ってみて話を聞いてがっかりしたのだ、ということのようです。こういうことはままありますね。
私もある高名な名門の老師とお会いした時に、落ち着かなげに目をしばたたかせて唇をとんがらかせながら「あなたの知っているA先生は私にいつもペコペコしている」とか「有名な他流のB先生やC先生は、私が気に入らないと言った奴は一走りして殴ってくれる」などと言う話をされて、がっかりしたことがありました。
また別の少林派流れをくむと主張している先生は、酒を飲んでは海外で贖った売笑婦の話を楽しげにしていました。
まぁこの二人は品性の問題ですが、モーシャグプタの場合は、たんに天才であった玄奘には物足りなかっただけなのかもしれません。
なにせ玄奘はまたの名を三蔵法師と言うように、普通は一つでも大変な仏教の極意を三つもきわめていたほどの大天才でした。
さらに、そこで満足するのではなくて、もっともっと深い真理を求めて人生をかけた旅に出たことが、この人の本当にすごいところだと思います。
また、日本に密教を定着させた弘法大師空海も、時に自らより劣る人に冷たいところがあったという話もあります。
もちろん、他人に親切ならそのほうが良いのですが、このようなレベルでの真理の追究をするということは、世間智のようなものよりも優先してしまうものがありうるように思います。
私が会ったことのある人間臭い二人の先生と、冷徹だけど真理に誠実な二人の僧を比べてみれば、やはり後者のお二人は尊敬できると思ってしまうのは、私自身がまた真理を求める部分があったからでしょうか。
真理への誠実さと切実さのようなものを、私はとても美しく感じてしまいます。