前回予告したお話を書きましょう。
くだんの内家拳の先生の本には、太極とは陰陽が円転する様を象徴した物であり、陰陽の分明だけではなく円環、その入れ替わりと混交にこそ太極拳の奥深さがあると書かれていました。
なるほど。それはとても高度なお話です。
その具体として、世に誤解されがちなのが気沈丹田であると言います。
これは気を丹田に沈めるというのは実は禅の言葉であり、少林拳の要訣であって、太極拳ではそうではないのだと書いてあります。
太極は陰陽の円転が肝心なので、丹田一点にとどめてはその入れ替わりと混交が行われない。気は丹田を含めて全身を回るからこそ、捉えどころのない柔らかな体用が出来るのであり、それこそが太極拳の神髄だと言います。
確かにそれはすごい。そうなったら理論上、どこを打たれてもそこから身の部分を逃がして中核を撃たれなくなります。
前に書いた打血や打気などの打人訣はそのような概念を想定してあるものなので、中国武術においては追求されて来たテーマであるのだと言うことも分かります。
そして、そのようにして全身を丹田として使えるようにすることを一力というのだと言います。全部が合わさって一つになるということです。
それ、私が少し前に書いたばかりの結丹のことではないでしょうか。
私が思うには、この太極拳の先生は少林拳のことがよく分かっておらず、誤解が生じたのだと思うのですが、その根拠はこの一力に対する先生自らの説明にあります。
まず一つに、先生はこの太極拳の全身が丹田として使えるという状態を、ヨガや周天気功でも行われるものだと書いていました。
もう一つに、禅では下丹田一つであるので少林拳はそこに気が留まっていると解釈していました。
この禅の部分は間違ってはいません。
しかし、これは実は日本の禅に限った話であるようなのです。
というのも、日本の禅は立禅や動禅、瑜伽の存在感があまりなく、ことさら座禅がフィーチャーされていますので、丹田と言えば臍下丹田だということになったのでしょう。
しかし、実際には中国の禅宗では丹田は三つと解釈すると聞きます。
上、中、下に丹田があり、これを三丹と称します。
むろん我々武術をして禅を行う物はこれを重視します。
そしてさらに遡れば、中国仏教になる以前のインド仏教ではこれはチャクラであるとして七つの物だと考えられます。
東に伝わるにつれて重要な物が絞られていったのでしょう。
しかし、だからと言って中国の禅においてチャクラの残り四つが無くなったわけではありません。
私は気功の中でその七つのチャクラを活用することから、武術の基礎を習いました。
中国語ではこれらを車輪、あるいは法輪と呼びます。
さらに、周天気功ではこのチャクラの表裏を活用することで身体の任脈と督脈を用いて全身を活性化させます。
その結果が、全身が丹田となる結丹という状態になるのだよ、ということなのですが、これは少林拳の身体的目標点である金剛不壊体と言う言葉で表されている物に繋がるものでしょう。
そして、この気功も禅も、インドのヨガから来たものです。
だから達磨大師がインドから伝えたのだという、達磨開祖伝説がある訳です。
なので、ヨガにはあるけど少林拳にない、ということではない。
と、いう訳でこれで、少林拳側からの視点と太極拳側からの視点が並べられました。
私は太極拳のことはまったくわかりませんが、両方をマスターしている方や陳式の太極拳と陽式をそれぞれ違った物として学んでいる人には、比較する材料として活用できるのではないでしょうか。