近代の高名な武術家の武勇伝の中には、大変に高いレベルの神力を発揮した物があります。
しかし、それらの人々が実際に内功が極まって仙人になったという話はあまり聞きません。
それは、内功の一部である武術をやっていただけで、気功を専門にやっていた人とはレベルが違うからだ、という見当の付け方も出来はしますが、でも仏教の高僧もまたその後新しく菩薩になったというお話も聞かない。
なのでやはりこの辺りの修行して宗教的宇宙に組み込まれていくという考え方は、信仰の分野の概念だと思ったほうが適切なのかもしれません。
西洋社会が近代化をする折、興味深いのは彼らが資本主義的な植民地思想と信仰を一つの物として保持していたことです。
ローマの時代、西洋には下水道まで設置されていたというのに、中世にまで至ってものすごい文明の停滞が起きます。
排泄物は路上に撒き散らかされ、ペストが流行って人口が激減するまでに至っています。
どうやらこれは、不潔は信仰の証であるというキリスト教の考えから来ているという説があるのですが、ローマ人の考えることは分からない。
中東でイスラム地帯が発展してくると、今度は彼らの文明への侵略を開始し、ムスクを則って自分たちの物のしたりしているのも意味が分からない。
奪わないで自分たちで作れるように発展すればいいだけなのに。
その段階から先進を再開して地球規模の侵略を開始するに至って、彼らは大変にひどい搾取や弾圧をおこなうのですが、その過程でキリスト教の教えとそれらの行為はぶつかりあうことなく消化されていっています。
この、キリスト教の懐の広さのような物があってこその侵略による発展なのでしょう。
現在でも、戦死した海兵隊員などが専門の墓地に埋葬される映像などを観ると「勇敢な兵士にして善良な息子であったジェイスンはこうして神の胸に抱かれ……」などと言う弔辞が述べられているようです。
よその国に侵攻して死亡して神の元に帰る……。
その一連のパッケージがやはり、文明の推進力になっているように感じます。
日本は明治維新と戦後の政策による急速な近代化の結果、思想の部分をまず切り落とすという選択が行われたため、文明レベルはアジアにおいては一足早くリードをしましたが、その分、人間の内面が一気に空洞化したのではないかという気がします。
苛烈な闘争と信じられる心の支えの欠落。この組み合わせでは人心が惑い、病みつくのも当然のことではないでしょうか。
そのような意味で、伝統武術や気功における思想の部分はいまこそ必要な物であるように思う次第です。
決して、不老不死になると思っている訳ではありませんが、そこの部分を「昔の人たちはこういう考え方をしたのだなあ」と基礎教養として学ぶべきであるように思います。
世の中には、超能力開発を目的として気功やヨガを練習するオカルト愛好家も居るようですが、そういうことではありません。
目に見える形できっちりと肉体が開発されるという手ごたえは、そういう意味で必要な物です。
超能力の妄想に囚われないためにも、気を勁に換して現実の力として確かに感じることは実は重要であるように感じます。
それこそが武術というアプローチで内功を行う意味であるかもしれません。
ヨガや気功などのアプローチだけでは、本当に内側が出来ているのかどうかがまったくわからないのではないかと思うことがあります。
身体開発の分かりやすいアプローチとして、武術は有用であり、有用であるということは、迷い道にはまりにくいという意味であるように思います。
とはいえ、実際にはそれでもあまりにも多くの人が迷ったきりになっている。
肉体を忘れて自分の内側にだけ心がこもってしまうような練功は、常に危うさが伴っています。
自分と向かいつつ、他人とも向かい合う武術の要素は、正気を保つための物であると言ってもいいかもしれません。