ある有名な武術の先生は、それまでほとんど道の無かったところを自力で開拓し、実力を研鑽していった方なのですが、その過程で強い発勁を身に付けた時に「いままで自分はこんなつまらないことのためにやってきたのか」とがっくりきたのだそうです。
これは非常に重要なことです。
私はそこまでの苦労をしたわけではありませんが、それでも自分の人生と労力を費やしてきた結果、ようやく出来るようになったと思った二日後くらいに、同様に感じていささか気鬱に沈みました。
発勁が出来ても、何も良い人間になったわけでもない。
これは実は、正しく道を歩めていた証だったのではないかといまは思っています。
何も良くもなってないと思うからこそ、では良いとは何か。どうすればそういう方向に進めるのか、とまた考えて道を進める。
なぜなら、ちょっと対偶を取るようなのですが、これと反対のケースの人と言うのがほとんどで、それが典型的な失敗の例だからです。
勁で相手を推し飛ばすという練習をしていて長いこと上手く出来ないと、そのうちに間違ったやり方でもいいからとにかく相手を飛ばそうとしてしまう人たちがかなり居るのです。
体重を浴びせたり、足を引っかけて重心を崩したり。
それはもう、勁でもなんでもない。
でも本人はそれで相手が崩れて後ろによろめいていくと大喜びをする訳です。
こういうことを、仏教ではマーラと言います。
マーラとは修行の邪魔をするために誘惑する悪魔のことです。
勁を練って発勁を獲得するという本来の目的から外れて、とにかく目の前の相手に勝ちたいという欲に囚われ、あらゆる手段を用いるという誘惑に捕まってしまっているのです。
マーラは必ず甘い喜びをもたらして人の向上心や本質を堕落させます。
上手く行ったのに、その次の瞬間に手に入った物への執着を捨てて次に迎えるというのは、このマーラと丁度真逆ではないでしょうか。
その段階に至るまでに、そういった人間になれているからこその修行です。
未熟な精神のままマーラの胸に飛び込んでゆくと、もうそこから先に進むことが出来ない。
手に入れて、納得し、手放すからこそ次に行けるのです。
西洋では、落とし穴を作ったら金貨を置けという言葉があるそうですが、まさにそれと同じです。
目の前に金貨が見えたら大喜びで飛びついてそのまま穴にドサー、竹やりグサー、デ・ニーロがロープでシュルシュルシュル―「助けに来たぞ!」めでたしめでたしと思ったらすでに死んでいて全部夢でしたー、未来世紀ブラジルです。
金貨を見つけたら、なぜこんなところに? 本物なのか? 拾うにしても誰か見てないか? 色々なことを考えられる人間であることが大切。金貨発見即ひゃっほー! では幼稚園児と変わらない。それこそ、悪意のある人間や運命に直面したら赤子の手をひねるようにやられてしまうことでしょう。あまりにチョロすぎる。
そういう目先の幸禍にやたらに振り回されない自分を作ることこそが本来の目的です。なぜなら我々の武術は禅の行だからです。
その行の中で目的を達成しようとしてマーラに取り憑かれて誤った道にはまり込んで、疑うことなく夢想の中にしかない幻の桃源郷に閉じ込められてしまうことを「魔境にはまった」と言います。
古来、行者においては非常に多く、注意を喚起されていることです。
武術の稽古にも魔境が沢山あります。
なので私はいつも「いまは出来なくていいから正しくやって」と注意をしています。
正しくやっていれば、いつかしっかりと積まれた功がしかるべく結ばれた時に、正しく出来るようになるからです。
マーラに取り憑かれて目的を見失って間違った手段に頼れば魔境にはまる。
魔境にはまれば先にはゆけない。
我々の練習は一応の目安として小周天を区切りとしています。
それは、私の師祖が小周天が武術の段階での目安だといているからです。
武術とは動く小周天だ、とう考えによります。
しかし、この小周天にも実はいくつもの段階があります。
私が習っただけでも数段階あり、さらに経典を読むと無数に段階が細かく分かれています。
そしてその段階を進めるには、必ず正しく出来ていて数週間様子を見て異常が無いときにだけ次にゆくこと、と注意がしてあります。
また、正しい指導者なくして勝手に本だけ読んで真似すると気が狂うことがあるけど責任は持たないからね、という注意書きもされています。
私は実際に狂った人にあったことがあります。典型的な統合失調でした。本人は気功が原因だと言っています。
本来は、気功でおかしなことをしても変だなと思って辞めれば完全に狂うまでには至らないとお思いになるかもしれません。
しかし、ここにマーラが住み着いているのです。
間違った気功をして気持ちが悪くなったり、健康状態が悪くてやりたくなくなればそれは辞めるでしょう。
でも、マーラの罠は甘いのです。
間違ったルートで行う小周天は、気持ちが良いのです。
通って気持ちが良いのではなく、気の流れが一定の所でとどまる気持ちのよさに惹きつけられてしまうのです。
それを追求すれば偏差の始まり。一部だけがいびつに発達して神経のバランスがめちゃめちゃになります。
目先の喜びにひゃっほーいと飛びついた結果です。真っ逆さまに転落してゆきます。
気功にも武術にも、このマーラは常に付きまといます。
執着がその原因です。
自分が執着に囚われているなと思ったらすぐに手放す習慣を付けなければ危険かもしれません。
経典に「スピリチュアル・リーダーと呼ばれる人たちが自分の得た力に夢中になって他が見えなくなって堕落することが多い」と繰り返し書かれているのはまさにこのことです。
出来た瞬間、違うのではないか? 本当にこんなことが自分の目的なのか? 何か間違っているのではないか? と疑うことが実は必要だと思っています。
疑いは迷いではないか、というのも正しいのですが、しかし、この疑いは実は正しい道でもありうるのです。
お釈迦様の仏教が、なぜ信仰ではなく哲学足りえたかというと、哲学というのは疑い続けることだからです。
それによって真実に向かって進んでゆくのです。
マーラに捕まって魔境で結末を迎えても意味がない。
私が、人を見て教伝をするのもそのためです。誰にでも気軽に物を渡してエゴを肥大させ、おいしそうな餌に育ったところでマーラに与える、というようなことをしたくない。
お釈迦様は「人には質があるので相手の分かるレベルで教えを与えるのが大切だ」と言われたと読みました。
なので、相手がどの段階までマーラに捕まらないかというところを見て、その人の自制と理性のレベルによって教伝を制限しています。
特に小周天の段階は、進めるほどに危険が多いように思います。
オカルトやスピリチュアルにはまりやすい人はおそらくイチコロで魔境に飛び込んで行ってしまうことでしょう。そこで「ブラジルの水彩画」を聴きながらエンドロールを観ることになってしまいます。
なので、総合的に様子を見ながら「この人はここまでだな」と言うところで歯止めをかけます。
常に自問自答。何が正しいかを問い続けながら真実に寄り添える人でないと、手にした力に心を振り回される。
心を振り回されれば人生を振り回される。
成功その物が破滅になることは珍しくないように思っています。