師公の書かれた経典によると、気というのは八つに分類されるそうです。
一つ目は先天の気。
これは元神、本能の気であり、父母の精から受け継いでいる、いわば受精卵の持つ力です。
そこから下界に生まれて、最初に泣いたときから作られ続けるのが呼吸の気です。息をすることで作られる力ですね。
ついで、母体から切り離されて自分の身体で独立して生命が運営されるときには、経絡を流れる気というのは活動を始めるようです。
それから、身体に気を送る脈動そのものを行う気があります。
食べ物の栄養である水穀の気もそれによって身体を巡ります。
そして、自分自身が今度は命を未来につなぐための性の気である精。
自分自身の本質、人間の心である神。
最後に、無極という宇宙の力という気があるそうです。
そう書くと妖しいのですが、つまりは大本の元神を作る元となった宇宙の働きです。これが動植物や大気を生み、それが呼吸や水穀の気として人の中に入ってきています。
自然の働きと言っても良いのでしょう。
中国武術では、もちろんすべての気を用いて活用しますし(いわゆる勁は物理的には脈動の気の延長です)、目的とするのは無極に至ることなっているのですが、どうも日本ではその辺りがいまだ理解を得られていません。
これは日本武道、もっと言うと日本の体育会系、ないし軍国主義的近代思想に原因があるのではないでしょうか。
日本で言う「気」とは「気合」「気迫」などのことのみであって、中国でいうところの神のことだけを差しているように思われます。
さらにそれさえも「神とはすなわち認識力のことである」という解題があるくらいで、決して気合や気迫のような「感情」や「勢い」「空威張り」というようなことを決して意味してはいません。
つまり、日本武道や日本武術が最も表看板とする意味での「気」というのはそもそも存在していないのです。
それがなぜだか間違って伝わって、果てはただ大声を出すことを「気合」などと言うようになってしまった。
これ、やはり明治の日本式近代化、すなわち軍国主義による政策が文化侵略をして捏造したものでしょう。
昔の日本武術では「心技体」ではなく「心気体」と言ったとはよく聞くお話です。
気迫や気合は心、中国で言う神ですので、気はそれとは別物としてピックアップされていることが明白に現れています。
そして、気とは中国語で力を差すので「心と力と肉体」という意味になって、ちゃんと納得できる内容となります。
心技体と言い換えた時に、精神主義が生まれたと考えて良いでしょう。
この言葉を教えていた人物として代表的なのが柔道の父、嘉納治五郎先生ですね。
この人は当時の最先端の知識人で、いかにして日本を洋化して世界の一等国に押し上げるかということに尽力していた。
なにせ日本最初のオリンピック委員です。
現代武道という概念を生み出して、それまでの旧弊な武術を和魂洋才のスポーツに作り替えた。
なので、スポーツである現代武道は気迫だ気合だという訳です。
これはつまり西洋的なスポーツマチズムが正体です。
武術をやっている人間はなぜかスポーツをバカにしたがりますが、私がお世話になった現代武道の先生が著書でおっしゃるには「武術と武道は違う。武術は合理的だが武道はスポーツなので不合理的だ。だからこそ苦しく厳しい。それをやるところに価値があるのだ」ということです。その通り。楽をしてはなんの訓練にもなりません。
楽な練習まがいのことをして武術だなんだと言ってる人たちがスポーツをバカにしたがるのは、おそらく百年やってもスポーツマンにはかなわないというコンプレックスからなのではないでしょうか。
この辺りの区別は明確です。
なので、もし武術だ古武術だの先生が古伝に無い解釈で気のことを気迫だ気合だの精神主義で述べ始めたら
その先生はきちんと武術を習ったり勉強したりしてこなかったのか、あるいは独自研究の創作なのかもしれない。