精の運用をする稽古をしていると、精力が強くなるかは分かりませんが、精が通る経絡の勁が強くなります。
この勁を用いて抖勁を行うと非常に鋭くなった感じがあります。
もしこれで本当に威力が伴っていれば、おそらくは私の望みうる勁の最高の領域に至っていると思われます。
ただ、これを人に伝えるのは本当に難しい。
もちろん、理論的には私がやったとおりのことを情報として伝達すれば良いのでしょうが、非常に人を選ぶのです。
私が普段やっていて、かつ、いまでももっとも正道だと思う気功は、外の世界と繋がって自我を消すものです。
なので、自分の外に意は向かう。
しかし、精を誘導する気功はかなり自分の内側に意を向けないといけないのです。
これはエゴの強い人間ならたやすく自分への執着に引き込まれてしまうパターンの物です。
そうしてたちまち偏差を起こしてしまうことでしょう。
非常に危険です。
だから、人格的に恬淡としていて、偏差の危険さを十分に知っていて避けられる人でないとただ単に破滅させるためだけに伝授することになってしまう。
私の場合はもともと、人生が最低の所から始まっていて師父に何も説明されないままただ気功をやらされたのを持ち前の間抜けさで何も求めずにやっていたのが偶然いい方に作用しただけです。
別に強くなろうと思ってカンフーをやってもいなかったし、秘伝を独占して大したものになった気になるつもりもありませんでした。
むしろ逆に不真面目なくらいにただ忠実になぞっていただけです。
人生のあらゆるものからなぶり殺しにされている最中で死ぬまで待っているだけのような状態でしたし、自分を救う物が世の中にあるなんて思ってもいなかった。
いいことや幸せなんて望めなかった。ただこれ以上苦しむようなことが起き続けなければそれだけで最高の救いになるのにとしか想像できなかった。
偶然そういう人生に居たから、何も求めずただやれと言われてことをやれました。
発勁も大周天も偶然です。
色々調べても、けっこうな確率でクンダリニー上昇の覚醒は偶発要素が強いとの証言があります。
それらをつなぐ一つの結論として、精の運用に至ったのも完全に偶然です。
もし熱心に理論研究をしている人なら、元祖がヨガのクンダリニーにあるので性的エネルギーを運用するのが少林の中核にあるというのは当たり前に導き出せる答えなのでしょうが、そういう研究もまったくしてませんでした。
ただ、師父が教えてくれるものをひたすらわき目もふらずにやっていただけです。
だからいまだに有名老師のことも名門門派の噂もまったく知らない。
そういう、情報ではなくて感覚に導かれた結果が良い方に作用しました。あらかじめ正解を知っていて答え合わせのようなことをすると、きっとやはり妄念が出てきて上手くいかかったのではないでしょうか。
知らないという状態に戻るのは難しいことなので、そこは熱心な人たちの不幸かもしれません。
どうにか欲を持たず、淡々と取り組めればもっとも高いところまで伝授が出来るのですが……。
どうしても人間性が問われる。
これは道徳的な意味ではなくて、自分の心を制御できるという意味で。
神、すなわち人格とは認識能力のことである。という精神観で観た上での人間性です。
これを人に求めるのはとても難しい。
だからこそ、繰り返し経典には「徳こそがもっとも大切なのである」と書かれているのかもしれません。
やっぱり最後のところで一番大切なのは、良い人格、良い生き方であって、その原則に反するなら、すくなくとも少林武術をする上で真の向上をすることは出来ないのではないでしょうか。
武術は原則的な目的にたどり着くまでの道にすぎず、そこに囚われていてはかえって獲得することは出来ない気がします。
うちの師父はかつて「武術なんてなくなっても全然困らない」と言っていましたが、いまは私もまったく同感です。
武術に興味の無い人が武術しに来てくれないかなあ。