前回は、オカルトマニアが武術や気功に寄ってくる理由を書いたのですが、そのような層の人たちには聖典となっているような著作群があるそうです。
それらの本を書いた人は、どうも明治にヨガを修行した中村天風先生の話とよく似た来歴で仙道の修行に至ったという人らしいのですが、実は事情通の話によると、その内容というのが私の学んでいる物の簡易版だと言うのです。
ちなみにそれらの聖典のうちの一部は、コンビニ本のような物でも読めるようです。うひゃひゃひゃひゃひゃ。そんなもん読んで修行!! インスタントでファストな人生観が反映されているようです。
こうやって私がばかにして見下げて笑っているとさも一方的で感じが悪いようですが、実はそうではないかもしれません。
というのも、実はそれらの本の著者の先生が「ここには本当のことは書いていないからやっても効果は出ない」と言っているそうなのです。
もし本当に、それらの内容が私が学んでいる物の簡易版なのだとしたらそうでしょう。ダイジェスト化するときに切られた部分が必要になってくることだと思われます。
そして、本物の方では「本だけを見て自己流でやると危険なので絶対に真似しないように」と書いてある。
類推するに、効果が無いから廉価版が出せるし真似して部屋で一人で「修行」ごっこが出来るのであり、本物は効くから取り扱いの注意が繰り返し行われるということでしょう。
それらの自己流修行ごっこの人たちの間では、小周天を成功させることが求められているそうです。
この小周天は、いくつもの段階があります。
私が知る限りの高いレベルの物が成功すれば、それだけで武術の段階で求めることは完成すると師伝を受けたことがあります。
武術が完成するレベルの物を、本を読んで部屋で修行ごっこで……? 通信教育の資格取得テキストでも読んでればもっとましな人生になるでしょうに。
でも、それらの本でも入門レベルの小周天のやり方については恐らく書いてあるのでしょう。
仙道の修行ごっこ者の人たちには分からないかもしれませんが、武術もまた本来の目的は仙道などと同じところにあります。
むしろ本当なら仙道の道の一部として武術があると言って良い。
なので、まっとうに武術が一定のレベルまで出来ないと、たぶん小周天無理よ?
中国では太極拳とかはそのための修行だったという説が根強くあるくらいですから。
まぁ太極拳の世界で師父レベルになれれば芽が出る可能性も出てくるのではないでしょうか。
武術と言うのは、力の流れを体で感じ、その力を自分が活用すると言う物です。
つまり、気を理解するためのとても重要な段階だということも出来る。
だから触れるだけで相手を飛ばしたりすることが当たり前に出来るようになる。
そこを経ないで気がどうのと言っても、いやあーた気がなにか分かってないでしょ、というしかない。
その、武術で扱う気の具体として勁という物があるのですが、最低限それを発することが出来ないと。
私の経典の師公も、少林拳の師父たちから気功や練功法を学んで大成した方です。
それを種本にしたダイジェスト本を聖典として扱うなら、やはり武術の段階を経ないと理解は進まないことでしょう。
私が武術の師父なのに、人文関係のことばかり言うのもこの考え方に由来します。
武術を学びながらその先の生き方を得ると言うことが出来ないと意味がない。
それを伝えてきた先生が少ないから、日本の中国武術や気功の世界では、十年以上もやってきてまともに立てない人が非常に多い。
世間で「グランディング」がどーだこーだと言う人で、ちゃんと立てる人に会ったことがない。
ちゃんと立つということ。その立つ力を武術では定力と言います。
その力を練るのは武術の最初の一歩です。そしてそれが十分に出来れば、ただ触っただけで相手は飛ばせる。
逆にそれが出来る人間に推されても飛ばされない。
グランディングがどーこー言う人たち、みんな飛ぶんですもの。
私にじゃなくて生徒さんで一年、二年程度の人たちに推されて飛ぶ。
立ててないんですよやっぱり。
そして、そういった人たちを飛ばす程度の生徒さんでも、おそらくほとんどは本当の小周天を伝授するに至っているとは限らない。本物はその先なのです。
立てない人と、呼吸法がどうこう言う人たちも大抵同じです。
呼吸は大切ですけど、八つある気の中の一つであってすべてではない。
気功のことを呼吸法だと言うような人が平気でのさばっている限りは、そりゃその解釈でる限りは何も出来るようにはならないですよ。
そういったことが何十年にもわたって続いている理由は、教える気がない先生方と出来るようになる気がない生徒さんたちの間の、経済を媒介した共依存関係にあるのではないでしょうか。
形式的にやってるだけで何かをした気になってそれで充分という見えない商品がやり取りをされている間は、この流通が消えることはないでしょう。
そういう世界の人たちとは決して同一視されたくはない。
本物は、ただ真実だけを追求します。
それが出来ない人は、決して至ることはないものでしょう。
そして本当に生きていない人が、真実に至ることはきっと極めて困難なのではないでしょうか。
大切なのは生き方なのだと、信じて疑うことがありません。