突発的に通り魔殺人を繰り返し、最終的に自らの命を絶つ、あるいは絶とうとする、という事件は、アメリカにおいてはテロとしてもそうでないものとしても発生しています。
これは銃社会であることや、国際的な紛争問題であることや、また多国籍社会であることが関連しているという見方もあります。
しかし実際に原因はそこにあるのでしょうか?
銃の手に入りにくい日本においては、車やナイフを用いて同様の犯行に至る者や、中には警察官を襲撃して拳銃を手に入れる者などがありました。
すなわち、根本的な発生原因は銃社会にはない物ではないでしょうか。
それよりも、アメリカ型の社会構造そのものにあるのではないかと思われるところがあります。
宗教学者の方が言われるには、この陰には個人が孤立して無縁の身となってしまいうる社会の影響があるのではないかといいます。
その不安からの自殺と、その前に多くの他人を無差別に巻き込んでゆくという行為とみなされているのですが、確かに、人との縁がない実であることを原因とした自殺であるなら、その最後に「誰でも良かった」と多くの他人に自分との暴力的な縁を一方的に押し付けた結果なのだとみなせるように思います。
私には、自ら命を無くしたいというところまでは理解できても、その折に他人を巻き込みたいと言う気持ちは心情としてはまったく理解できません。
粛々となるべく人に迷惑を掛けず誰にも関わらずにそそくさ消えてゆきたい。
自ら居なくなりたいと言うのはそういうことではないでしょうか。
それが、わざわざ大騒ぎしてみっともない姿を喧伝して大恥をさらして他人を巻き込むような真似をするというのは、やはりこの先生がおっしゃるように愚かな形での暴走した縁への渇望なのかもしれません。
日本でこのタイプの犯行を犯した秋葉原の加藤受刑者は、犯行前に「人と接するのはいいね」などとコミュニケーションに飢えていたことを想わせる書き込みを残しているというのをテレビで目にしました。
フツーに友達作ればいいのに……と思うのですが、それも中々上手くいかず、絶望からの自殺願望が先だってのことなのでしょう。
彼の犯行の動機は雇用制度のいびつさにあると言われていましたが、だとしたらなぜ雇用主側を凶行の対象とせず、まったく無関係な人々を対象としたのかがずっと謎でしたが、これが縁に飢えた狂気のための行動だとしたなら、彼が趣味を同じくする秋葉原の人々を襲ったことの意図が見えてくる気がします。
「誰でもよかった」という犯行後の供述は、本当は誰でもよくなかったのではないでしょうか。
アメリカでのいくつかのティーンエイジャーや学生の無差別銃撃事件でも、やはり同じ学校の生徒を対象としているケースを目にします。
これもやはり、同じ負の仲間意識、あこがれや嫉妬からくる物であり、ある種のストーカー心理のような物なのではないかと思われます