先日、いつも通り訓練所の門を開けてお釈迦様に挨拶をし、足洗い場の支度をしていると、新しい生徒の人がやってきました。
エド・シーランに似た白人の男性で、職業を聴けば小学校の先生だと言うことでした。
ここに来たのは、一度仕事を辞めて世界を旅して見聞を広めたいからだということでした。
きっとその経験は、今後彼に習う子供たちにとっても大きなものになることでしょう。
私のように、特定の目的を持ってここにきている人もいれば、彼のように何かにぶつかるかもしれないと思って不特定の経験を求めている人もいます。
こちらに来ている仲間の内には、お寺に瞑想に行ったりしている人もいます。
彼らが求めているのは、自分自身なのか、それとも世界の現実なのか。
唯識瑜伽派という物があります。
これは、仏教の中でも世界をただ自分が認識している物でしかないと考える派です。
その思想の人々は、行としてヨガをしていました。瑜伽とはヨガのことです。
思想の行として瑜伽をする人々の派が、唯識瑜伽派。
我々、禅の具体として武術や気功をしている人間はまさにその直系となります。
そしてその視点から見ると、自分を探すと言うことと世界の現実を観ると言うことはある意味で同じになる。
ただここで、自分が見ているのが自分なのか世界なのかというところで明確に一線が引かれるようになると私は思うのですが。
武術を教えると言う人の中にも、自己追及とか自分探しとして教えている人が割に観られます。
現代武道になるとほぼそちらが目的として謳われています。
しかし、唯識瑜伽系の中国少林武術は本来それとはまるで違う思想を持つことになります。
こらちでは、自分を捨てて行くことを練習の目的としています。
私も練習中、エゴを捨ててといつも言っています。
そのエゴが身体の動きに現れたり動きをとどめたりするので、それを修正していくことで生き方全般における自我のざわめきを取ってゆこうというのが目的となっています。
前の記事で書いたことについて、私は「まるで十牛図だな」と思いました。
十牛図というのは禅に伝わるものです。
これは、牛を探しに行った牧人と言われる人が牛を見つけて持って帰り、そのうちに牛のことを忘れ、牛が欲しかったことも忘れて、最後は忘れた状態で日常に至るということを現しているものです。
この牛と言うのは、一般に悟りのメタファーだとされていますが、一説によると自分自身のことだとも言われます。
自分が欲しいと思った人があちこち探しまわり、自分を見つけ、それを捕まえ、飼いならして人騎一体に至り、やがて自分のことを忘れるという物として見ると、悟りだと言うよりもより近しく感じるのではないでしょうか。
私も別に自分探しをしていた訳ではありませんが、自分が無くなりました。無くなって、ただの自分が残っています。
二年前だか、三年前でしたか、武術の内功が大周天に至ったとき、自分の武術がもう武術という範疇の物ではなくなったと感じました。
そしていまでは、その自分が居なくなったという次第です。
この十牛図と、陰陽分明から混元というサイクル、それはともに我々の武術において非常に象徴的な物であると思います。
いつも言っていることですが、強い弱い、勝つ負ける、創作やねつ造や復元武術などとはうちはまったく無関係なところでやっています。
伝統の武術というのは、人類の文化そのものが反映しているので、人の生き方そのものを導くところがあります。