房中術による、肉体の変化についてこれまでまとめてきました。
それらは武術や気功の実践において、とても有用な効果をもたらします。
しかし、本当に大事なのはただ肉体の変容だけではありません。
古来、気功も武術もその本質は瞑想でした。
瞑想の身体性という考えはプロテスタント以降のキリスト教的思考ではとくに薄れており、両者はほぼ対局の関係にあるのではないかとみなされることさえ少なくないようです。
しかしそうではありません。
肉体を通して瞑想をするという考え方こそが本来のアジアのやり方です。
そして、その瞑想によって精神の変容を迎える。
この変容を、易と表現することが多いのですが、この易することの代表が、このシリーズの最初の方に書いた、太陽の光と月からの重力が物質的に変化して植物になり、あるいは動物の肉になって我々の食品となってゆくという過程です。
それと同様に、我々の中でも肉体が易し、それによって精神が易してゆきます。
太陽や月、植物や動物の肉などから得たあらゆる力を一言に気と言いますが、そうやって体内に取り込んだ気に、精から易した気を加えることを練気化精と言います。
それに追加してそのようにして体内に満たした気を環精補脳の功によって人間性にしてゆくことを練気化神と言います。
房中術とはこのように、精を神(人間性)にしてゆくことを目的としています。
精髄に続いて、精神という言葉がここで思い起こされます。
力や肉体の段階に及ばず、人間性の向上を目指すからこそ、この術にはやる価値がある。
我々が行っているのは、ただの手練手管の技の練習ではありません。
あらゆる種類のだまし討ちを訓練して他人との間に相対的な優位を築くことに専念する、というのは、武術や鍛錬をコミュニケーションの手段だと考える人間には当たり前のことかもしれません。
しかし、我々はその世界でのことは行っていません。
あくまで自分自身の体と、そこに映る世界のことだけを考えます。
このような思想を、唯識瑜伽派と言います。
その瑜伽の思想から、我々の行っているすべての練功法は伝わっているものです。
肉体を易するということは生き方を易するということです。
生き方を易するということは、命を易するということです。
命を易することは、人生そのものたりえます。
キャリステニクスのコーチ、ポール・ウェイドは、何一つ確かな物が無い監獄の中で、肉体の鍛錬だけが確かなもので、それだけが生きがいになり、それだけによって正気を保つことが出来たと語っています。
我々は誰しもが、自らの肉体と運命と言う監獄に閉じ込められた囚人ではないでしょうか。
その混沌と理不尽の中で、自らの肉体を向き合い、そこのある秩序を見出してそれと共に生きることによって、正気というのは保たれる。
房中術というのは、そのような目的意識を持った非常に高等な身体操法であり、哲学体系です。