このような光景に遭遇したことはないでしょうか。
大人が子供に質問をします。
「プリンがいい? ゼリーがいい?」
この時、子供は途中で質問を遮って、プリント聞いた段階で「プリン! プリンがいい! プリンがいい!」と叫び出します。
そしてゼリーという言葉が聞こえるや否や「ゼリーやだ! ゼリーやだ! ゼリーやだ!」と泣き出します。
これは考えてみると非常に不思議なことです。
この子供は、プリンがいいと主張している段階、つまり質問の全部を聞かない段階で全貌は想定出来ているのですが、にも関わらず質問の趣旨は理解が出来ていない。
その先の、連呼に関してはおそらく、子供に強くある万能感で、同じ言葉を繰り返し力強く唱えるほどそれが叶う確率が上がると言うある種のシャーマニズム的な想いからくるところなのでしょうが、泣くことはない。
私はこれとまったく同じことを、老人がするのを見たことがあります。
お客の立場の老人が同様の質問を受けた途端、それまでは普通に質疑応答をしていたのに「ヤダヤダ! ○○ヤダ!」とだだをこね始めたのです。
その時になって、その老人はおそらく認知症が始まっていたのであろうと思ったのですが、通常これは正常な状態の成人はあまりしない振る舞いだと考えられると思います。
もし自分が同じ質問を受けたとしたら「あ、プリンください」と一度言ってお終いでしょう。
と、このような書き方をすると、連呼をしたり叫んだり泣いたりする主張は極めて不適切であったり不必要(ここ大事)なことであるように思えてしまいますが、実はそうではないのかもしれません。
というのも、最近脳の専門家の人が話しているのを聴いたのですが、選択すべき事象に遭遇したときに、結論を出してハイ終了、となるのは、男性の脳の特性なのだそうです。
女性の場合は、返事が出ない。
あるいは、連呼したり下手をしたら叫びだしたりするかもしれない。
そんなことが無いと思われる方もいらっしゃいますか?
女性同士がカフェでランチをしていて、コースの最後のプリンとゼリーはどちらにいたしましょうとウェイターに訊かれた時に、「んー! プリン―! ゼリー!」と大きなリアクションを取るところは想像できないでしょうか?
彼女たちは一度目を合わせて口を大きく開けて「えーー」などと言いあったりします。
果ては片方が「どうしよー」と言うともう一人も「どうしよー」と復唱したりする。
その間ウェイターさんはニコニコしながらずっと立ってます。
これ、先に挙げた子供や老人のケースとほぼほぼ同じ道程をなぞってはいないでしょうか?
これが、女性脳の特性であるようなのです。
これが特性だと見られるか、未発達、ないし見当識の問題だと受け取れるか、というのが今回のポイントなのです。
脳の先生は、これは女性脳の能力であると言うのですね。
というのも、女性というのは男性と比べて社交性が高いと言います。
一定時間社交活動をしないと男性よりも精神に負担がかかるように出来ている。
それはなぜかと言うと、生物として群れの中で生きるためについた機能で、選択肢に面した時に、即断をしないようになっている。
問題を周囲に開示し、共感を訴えるというのが反射的な行動だと言うのです。
例えばの話、転んで怪我をした時に、黙って痛みの度合いを観察し、機能への影響を確認しながら傷口を塞ぐものを見つけつつ、洗って消毒することが出来る場所と段取りを想定する、というようなことを即時したりはしない。
「いたーーーーーい!」と大声をだし、うずくまってただ動かない。
時間の無駄! いい歳して何も出来ない!!
などとは思ってはいけません。
生物の遺伝子として、群生の習性に従ったもので、こうして周囲に救助を訴えているのです。
雪山や孤島で遭難したときと同じで、救助信号を出す。
これは、生物としての正しい生存手段です。
怪我をしたらすぐに自分で傷口を焼いて消毒、針と糸で縫い合わせ、そのままジャングルに入って行って単身サバイバル、というようなスタローンのようなことはしません。
この、社交性を力として生きてゆくという能力は、人類をここまで発展させてきた根本的な強みです。
魚もガゼルもライオンも、群れで生きる生物はこれがあるから生き延びてきている。
全体で能力を分かち合う、という手段で生活する生き物の強みを活用しているのです。
このような生物学上の発達の違いの結果は、女性のトークへの姿勢にそのまま反映します。
女性に相談を持ち掛けられて、解決法を差し出したら怒られた、という男性は多いことでしょう。
男性は結論を求めて、女性は過程を求める、というのはよく言われることです。
女性同士の悩みの話を聞いていると、まったく要領を得ないしお互いに話もかみあっていない。
これでは、共感を訴えて助けを求めるという本来の機能からすら外れているんじゃないかとも感じもするのですが、あれは実は
、もともとはそのような共感を求めるために発達した脳の仕組みが、問題を吐き出すことでその過程で認識をしてゆくというように固まっているそうなのですね。
だから、相談といいながら実はその段階でなにが問題かは分かっていなくて、なんかもやもやする、だから習性として吐き出したい、となり、その吐き出す過程で自分で問題が何かに気づき、それによって自分で解決することが出来るという自浄作用があるそうなんです。
精神の問題に関する対策として、日記に問題を書き上げてゆくという方法を聞いたことがありますが、同様のことを会話によって行ってのですね。
だからあれは、会話の形ではありますが対話ではありません。
感情を言葉にして並べてゆく対象は、友達ではなくて日記でもぬいぐるみでも自分の親指でも構造上は一緒です。
ペットとずーーっとお話している女性を見かけることもありますね。
あれはある種の外付けのハードとして活用しているのでしょう。
いつも解決策を提示して女性に怒られている男性は、このことを知ると少しは理解が進むかもしれません。
ただ、真剣に解決を求めている男性に対して女性が女性脳の活動と同じことをしているのだと思ってしまうことに関しては男性だけではどうにもなりませんね。
でも、男性はそうなったらそうなったで、言っても仕方ないので別にそこは期待しないで言わない、とまた解決してしまいますので、この関係性は基本的に一方通行になりがちであるかもしれない。
ただ、男性は女性がおしゃべりばかりしていて行動をしないということに関しては、少し理解をした方が自分のためにもいいかもしれません。
そのある種のアイドリングタイムのような時間が、女性にとっては実は内面で大きくことが進むために必要な工程であるそうだからです。
そんな訳で、東洋思想の師父という立場からすると、人間には自己の確立、自我の確立が必要だと思うのですが、それは近代キリスト教圏発信の女性の自立、というような物とはだいぶ色合いが違うように思います。
男性のやり方を女性にやらせるという形での社会進出は、結局男性社会の構造そのものが変わらないので、いつかどこかでシフトしてゆくことになるのではないでしょうか。
それは女性が進出をするほどに、女性らしいゆっくりとした時間のかかるやり方で行われてゆくのだとは思うのですが、女性と言うのはその時間を確実に味方につけている物なのではないかと思われます。