SNS全盛のこの時代、いろいろな若い人が楽しそうに練習をしている動画をネット上にアップしています。
別に興味はないのですが、どうしても上がってきてしまうのがSNS。
そこで行われている、現代武道や中国武術の動画を見るたびに、私は左右に首を振るしかなくなってしまう。
そしてその後で、どうして一体こんなことに……という思いにため息をついてしまいます。
そのほとんどが、出来ていない。
前の記事に気橋の問題を書きましたが、現代人のほぼ全員がきちんと立てていない。
それは、個人の癖や負傷の痕跡ではなく、もともと立つと言うこと自体を正しく学べていない。
ではそれを言うお前は、一体立つということの正しさを、何を根拠に語っているのだ、という当然の疑問が出てくると思いますが、それは東洋の伝統的身体操法という根拠に基づいてです。
アジアにおけるあらゆる伝統的な身体操法においての基礎教養は、東洋医学的な観点から本来は確立されています。
しかし、有名な現代武術の選手や、得意げに技を披露している先生方も、その部分がまったくできていない。
私は他人のやっていることに興味がないので基本武術雑誌などは見ないのですが、ある時に友人に見せられた時に、すでにその表紙に出ている人を一目見て即座に「なぜこの人はこんなに尻が出ているのだ」と言ったことがあります。
「それは……女の人だから……」
との答えでしたが、いや、おそらくは正しく学んでいないのでしょう。
古典の基礎教養をやっていない。たまたま失敗したということはありえるのでしょうが、それを隠そうとしていないというのは、そもそもが気づいていないのでしょう。
むしろ、そちらの人達よりも、ヨガの先生達の方が出来ていることが多い。
それはヨガこそがまさに伝統的なアジアの体育の基礎教養でもあるから当然なのですけれど、では、武道や格技の先生方がそこから何かを学んでいるかというと、そういう話はあまり聞かない。
この部分はどうも難しい話らしくて、現代キャリステニクスのメインストリームである、ストリート・ワークアウトをしている人の中にも、実はそのパターンが見られることは珍しくありません。
ものすごく立派な体の使い方をしているのだけれども、我々のやっていることからすると基本が違うということがあります。
なので、西洋的な体の使い方を追及していると、ものすごい高みに達してもそれは東洋的な体育とは差異があるということになります。
日本の現代武道というのは、明治期に起きた、日本人を近代人にしようという国際的なムーヴメントの中で生まれました。
そのために、嘉納治五郎先生は柔術を柔道に作り替えたのですが、その転換における二つの大きなポイントが、協議化と西洋化です。
柔道は、柔術の基礎からではなく、レスリングを土台に作られた。
多用される腰技などの多くはレスリングからもたらされた物です。
その改編は、日本人の体を西洋人と同じ文脈の上に乗せるという意図のもとに行われました。
日本を世界の一等国にしよう、日本人を欧州人と肩を並べられる民族にしようという悲願がそこにはありました。
だからこそ嘉納先生は、洋行し、日本初のオリンピック委員になり、国内においては柔道の国民体育化を働きかけたのです。
現在でも、体育教師や整骨師などの国家資格を取得するには柔道の段位を持っていなくてはならないというのは、この時に嘉納先生が行った、柔道の国家への食い込み方針の名残です。
この時に、ある抜け落ちが発生しました。
と、言うのは、レスリングが近代体育のように見えて、実はギリシャ時代から続いている西洋の伝統体育であるキャリステニクスを受け継ぎ続けているのに対して、柔道ではそのような民族的な基礎をすっぽり切り落としたことです。
柔術の古典的な基礎を切り落とし、レスリング化しつつ、レスリングの民族的な伝統を取り入れることはしなかったので、土台の部分がたく空白になってしまった。
ヘーシンクにオリンピックで敗北するまで、柔道ではウェイト・トレーニングをすることさえ禁止されていたと言います。
柔よく剛を制す、あくまで技だけで西洋人に立ち向かうのだ、というのがそのナショナリズムだったようなのですが、そもそもが柔道の本質は西洋体育、和魂洋才を目指した物なので、和のも洋のも基本を切り落としてしまえばそこに欠落が生まれるのは当然です。
おそらく、加納先生の見立てでは、人類は世界単位での近代化の結果、それぞれが集約的に歩み寄って新時代の人間社会をつくるということであったのでしょう。
そのために、日本側からその最先端に歩み寄って行くという美徳に先んじたのだと思いますが、実際はモンロー主義を主張していたアメリカが参戦を実行、世界の掌握に歩み出してそれをグローバナイゼーションなどと呼ぶと言う、実質的には「俺たちは変わらない。お前らが俺たちのやり方に従え」という支配的な世界バランスに至っています。
このことは冷戦時代までは予想されていなかったらしく、資本主義と社会主義の勢力図が確定すれば、そこで地球上の民族的な思想はすべて一つ所に集約され「歴史の終わり」が訪れると言われていました。
しかし、実際は民族紛争と宗教闘争が盛り返していて、それぞれの民族の歴史と文化のせめぎあいは継続され続けています。
結果、日本はいたずらに自国の文化を投げ捨てて、民族的な足場も実態も持たない袋小路に漂っているように思われます。
柔道とレスリングの比較に話を戻しますと、卑近な個人経験から言えば、総合格闘技のスパーでも圧倒的にレスリングの経験者が強い。
これは、技や着衣云々以前に、まず身体が違いすぎる。
柔道が各人の身体に合わせた技を定石とすると言う多様性を選んだのは一つの先見であったのは間違いがありません。
しかし、レスリングの、たとえどこのどんな者がこようと伝統的な練体法で同じような体型に作り変える、というマッチョで土俗的とも言える思想は、選民的、階級社会的であるとは言えますが、実際に極めて有効度の高い歴史に洗練された知恵を伝えてくれているありがたい物だとも言えます。
西洋のスポーツにはこの傾向が強く、投てき兵器の訓練であったり、伝令兵の訓練であったり、騎兵の調練であったり、あるいは障害を乗り越えて敵地に潜入して射撃をしてくる、というような物で在ったりと、それがどのような種類の専門の職能者を作るのかが明確な物が 多いように思います。
エリート養成の寄宿学校で興ったラグビーは、国を動かすリーダーおよびその縦割り人事の政治的能力の訓練がテーマであるとも聞きます。
そのように、自民族と多民族の勢力図を前提としての訓練であった「スポーツ」という概念に向き合うに際して、加納先生の歩み寄りは少し聖人君子的過ぎたかもしれません。
第二次大戦に従軍し、世界に空手を広めて世界大会を定着させたカラテ団体の総裁が、そのようにして各選手平等であるはずのスポーツの協議会を主催していながら「日本が勝たないとダメなんだ。外国人に負けちゃダメなんだ」と公言していたのは、加納先生のフラットで上品な公正さと較べるとずいぶんバンカラなように感じますが、本来スポーツとはそのようなナショナリズムがありきでの物であるのが正しい姿なのかもしれません。
となると、本来スポーツにおけるルールやジャッジとは別に、伝統的な肉体訓練を保持することは絶対に必要であったはずです。
レスリングが伝統的に継承している独自のキャリステニクスによって選手を同じようなレスラーのあるべき体形にする、という部分が実は非常に重要なところだったのではないでしょうか。
現在、本邦において武道と言われている物は、上に書いた何者でもない土台を持たない人間の身体が、表面的な技だけを行うという物になっているケースがほとんどであるように思います。
近代日本の工業は、他国が発明した技術を模倣するのが得意だとされているようですが、まさにこれはその要素がプラスに出た結果なのではないでしょうか。
日本武道が世界に広まりやすいのも同様の理由であるように思います。誰にでも出来る。
フィリピン武術でも、伝統的な物は外国人がやると一体なにをやっているのかわからない物がある、と聞きます。
私が学んだ物にも、取り敢えずは意味は分からないのですが明らかに同じ思想から反復されている要素が沢山ある。
しかし、その理解に努力と研究が必要な物にこそ、実はものすごく深い革新的な物があると私は思っています。だからアジアの武術の伝統を掘り下げ続ける仕事をしています。
現代武道はその概念が無いため、伝統の物も自分たちの物と同じだと錯誤しているところを目にします。
表層の形状をなぞっても伝統の本質は理解できない。
現代武道の先生の中には、わずか数回習った外国の武術を生徒に教え始めてしまったり、上辺だけみた物を「これは〇〇の練習法だ」などと言い出して動画で公開をしたりしている人が居る。
空手などは、そもそもが体系化されて居なかったものを近代以降の愛国主義の中で編纂し、それが次代の人材を担う大学の体育会系部活を拠点として広まっていった物です。
空手という物がそもそも確立されておらず、当然その教師なども存在しない(沖縄時代、本当の伝系を求める人たちは中国に渡ったり、中国から教師を招いたりしていた)ので、19、20の学生たちが四年の学生生活の中で自分たちで練習してそれを後輩に自己流で教えて行った。それが繰り返されていつの間にか「伝統」と称し始めていまに至っています。
その流れは逆流して、いまや沖縄においてさえ、日本式の道着をまとって、段位を制定し、神棚をまつっている道場が普通であるようです。
これがグローバナイゼーションの、文化帝国主義そのものでなくて一体なんだというのでしょうか。
明治という時代からの近代化の歴史とは、そのような歴史改ざん主義、文化の塗り替えの歴史です。
その繰り返しがいまはネット上で行われています。SNSの負の面で、誤った情報も高速で広まってしまいます。
伝統の深淵を理解するのに掛かる年月を、それははるかに超えている。
物理上、わかっていない物の方が真実より拡散しやすいのです。
加納先生は今わの際まで、「本当に柔道を極めたければ古流をやれ」と言われていたそうですが、この言葉にある「本当に」こそ、私が普段から繰り返している「本当に」「本物」という言葉と同じ物を差しているのではないでしょうか。
コンビニエントな物はそれでいい物ですが、それは決して、本物と混同すべきものではない。