太拳のルーツである、泰族について調べているうちに、より詳しいことが分かってきました。
泰拳は、タイ人(泰族)に伝わる武術のことですが、その泰族の内に、タイ・カダイ語族に属するチワン族という人々が居ます。
チワン族自治区という言葉をニュースで聞いたことがある方も多いことかと思われます。
彼らは泰族の本場とも言える雲南と、その自治区のある江西省、および広東省という、南派武術の熱々の原産地に居住しており、50以上ある中国の少数民族の中で、最大の勢力を持っていると言われているそうです。
中国の古代史を扱った小説でおなじみの遼の人々であると言われ、水滸伝では西遼として表れて宋に敵対をしています。
最大の勢力を持つと言われるのは、どうも歴代に渡って中華の朝廷に反乱を繰り返してきた歴史がある、ということもあるそうで、中国では非常に恐れられている人々なのだそうです。
ウィキペディアにも、男子は勇猛で知られると書いてあるくらいです。
そのチワン族、漢字では壮族と書きます。
そのために、ここでこれまで扱ってきた泰拳、すなわち古式ムエタイのことを壮拳や壮家拳と呼びならわすようです。
この武勇を持って鳴らした彼らの通称が狼兵であり、いかに勇ましかったかがうかがえる呼び名だと感じます。
明の時代の大倭寇の時にこの狼兵が参戦していますから、すでにその時には壮拳が振るわれていたと考えられます。
古式ムエタイ対海賊衆です。
しかし、のちに彼らの中からそのまま倭寇に合流してしまった物も多数いたそうなので、その辺りにやはり、反乱の部族であるという性質が見られるように思います。
清の時代に入ると、その崩壊のきっかけとなった太平天国の乱が、彼らの居住する江西省は金田村という場所から始まります。
この太平天国の調練のために作られた武術が我々鴻勝蔡李佛拳なのですが、蔡李佛は海賊衆である洪門の武術から発生しています。
つまり、大倭寇の時と同じく海賊と壮族がまた手を組んでしまった訳なのですが、その調練の拳法の内、太拳(太字拳とも)という物が、壮拳そのものなのです。
その壮拳の姿というのがおおむねこういった感じです。
https://www.youtube.com/watch?v=Y9p5EDNxUoE
広東南拳らしい立ち方で、肘打や膝打を多用します。
太拳とはまさしくこの通りの拳法なのですが、私がこの由来を聞いた時の印象は、現地にチワン族の人たちが沢山いて壮拳をしていたから自然にそうなったのかなあと思っていたのですが、恐らくは違います。
と、いうのも、チワン族の著名人というのを調べてみると、以下のような人々が出てきます。
- 蕭朝貴 - 太平天国の指導者の一人。天王洪秀全から西王に封ぜられ、八千歳と称した。
- 韋昌輝 - 天王洪秀全から北王に封ぜられ、六千歳と称した。
- 石達開 - 太平天国の指導者の一人。洪秀全から翼王に封ぜられ、五千歳と称した。
- 李開芳 - 太平天国の指導者の一人。地官正丞相に任命された。
- 林鳳祥 - 太平天国の指導者の一人。天官副丞相に任命された。
- 蒙得恩 - 太平天国の指導者の一人。賛王に封ぜられた。
太平天国の大将格、壮族ばっか……。
太平天国の五大王のうち、三人が壮族。
さらに王がもう一人に丞相(総理大臣)が一人に副丞相一人……。
もう、幹部勢のうちの最大勢力クラスでしょうこれは。
この人たちがトップにいた上で、軍部での調練に壮族の拳が用いられない訳がない。
この事情の上で、太平天国拳が設定されたおりに、壮拳が持ち込まれて太拳になったというのはまず間違いないと言って良いでしょう。
蔡李佛拳の大いなる謎の一つがほぼほぼ解明されたと言っていい気がするのですが、彼等壮族の反逆の歴史はこの後も続きます。
先ほどの紳士録にもこのように続いています。
反乱ばっか起こしてる。
そして、この清朝が倒れた後も彼らの活動はやみません。
大戦前夜、日本軍が満州からさらに侵略の手を伸ばし、南方にまで進出して行っていた頃の話です。
当時、現地では国民党軍と共産党が交戦を繰り広げていました。
この時、チワン族は共産党陣営に参加したのですが、その理由というのが、共産党軍は太平天国を革命の手本としていたのに対して、国民党のリーダーである蒋介石は太平天国の乱を鎮圧した将軍、曽国藩を師と仰いでいました。
そのために、蒋介石を仇と付け狙っており、その目的のために共産党陣営についていたというのです。
彼らの中で、また太平天国が全然終わっていなかったことがうかがえます。
この話には、怪談話が続きます。
南方の拠点であった南寧という都市が日本軍に占領されたあと、夜になると国民党軍に通じている人たちが殺されるという事件が続いたそうなのです。
これを、漢民族の人々はチワン族の復讐だと噂して恐れたと言うのです。
日本軍による内通者の摘発なら証拠が残るし、抹殺するにしても銃殺です。
しかし、夜な夜な山刀で切られた首が落とされていたというのです。
山刀というのは、壮族の看板兵器であったらしく、この強烈な復讐のアピールに人々は震えあがっていたということでした。
恐怖が募るあまり、漢族の人々は、チワン族は殺した人の身体を食べているとまで言っていたそうです。
もしかしたら狼兵と呼ばれていたのは、そのような風習があるという噂があったからなのかもしれない。
彼らの武術が肘を多用するのは、手には基本、刀を持っているからだと思われます。
飛び込みざまに通り抜けて切りつけ、それが受け止められたら肘や膝を叩きこむ。その勇猛果敢な戦闘法は、現在も太拳の中に受け継がれています。
身体を勁力の詰まった鉄球とみなして、転がりながら相手を轢きつぶしてゆくという蔡李佛のコンセプトと、それは殆ど同じことです。
その相性の良さから取り込まれた物なのでしょう。
そしてその直系の流れの支流は、フィリピン武術のエスクリマ(アルニス)にまで及んでいる。非常に興味深いことです。
やはり武術の真実を知るには、歴史や民族の文化について学んだ方がいい。