私が武術の操体において言っていることは、意拳の教えと似ているとたまに言われることがあります。
私はほかの門のことはわからないのですが、いろいろな先生の書いた文を読む限り、あまり似ていると思ったことはありませんでした。
ただ唯一、大成拳と銘打っている派の先生の文章を読むと、確かに体の遣い方に大変似ている部分をあるように感じたことがあります。
意見、大成拳など同じ門派でも時代によって名前が変わり、その先生がついていた時期によって呼び名が異なると聞いたことがあります。
だとしたら、その大成拳派の先生の時期は我々南派の色が強かったころなのかもしれません。
私は非才の身なので、同時にいくつもの武術を学ぶということをまずしません。
それどころかかつて学んだ物のうち、いまの自分と合わないものはどんどん捨ててきてしまっています。教えてくださった先生方には申し訳ないのですが。
と、いうのも、私の体の中に一つの武術の功が積まれてゆくと言うことは、少なくとも中国武術においてはその武術の体になってゆくということだからです。
そのような人体改造法が私の門での武術の練功です。これは前述の大成拳の先生のお話にもあったように思います。
別の派の意拳では、「細胞の一つの動かし方にに至るまで正解があり、それ以外はすべて間違いなのだ」という考えがあるそうですが、この大成拳派では段階を経て少しづつ体がつくりかえられてゆくことが語られていました。
その発想とその改造の仕方が、私が共通点が多いと思った点でした。
体の動かし方そのものは功のできる前とまったく変えたつもりはないのに、体が術の体に変っているから結果として威力が大きく変っていて自分でも驚いたことがあると、その先生は言っていました。
私たちの門もこれとまったく同じことがあります。
それをもって我々は功と呼んでいます。決して、何か特別な加速法や体重のかけ方を編み出したりするわけではありません。
このようなことを、易筋や洗髄などの言葉で表現しています。すなわち、筋(すじ)がかわり、また神経が洗われる、ということです。そのための内功を延々します。
単純に部分的に突き蹴りの技がうまくなっているということではないのです。よって、単純にただ数稽古で突きを練習しても功は成りません。
花拳繍腿という言葉があります。
見せかけだけで使えない拳法という意味ですが、これは必ずしも特定の門派を指して言っている言葉ではないと思っています。
有名なマンガ家の方は、もともと国体レベルのボクサーで、マンガが売れるまでは格闘技雑誌の記者などをしていたそうですが、どの大会に行っても控室にはものすごく勇猛果敢にシャドーをしている選手がいるそうです。
それに対して、とつとつとした静かなシャドーをしている選手もいるそうです。
勝つのは後者のほうだそうです。
実際のリング上で、そんなにものすごいシャドーのような動きはスタミナが減るばかりでなんの役にも立たないのだ、とその方はいいます。それよりも、試合前の段階ではきちんと使える実践用の練習を的確になぞっている選手の方が当然勝ります。
同じボクシングという流儀の中でも、その無意味に激しいシャドーボクシングのようなものも、花拳には含まれると思うのです。
すなわち、真芯を捉えていない練功、形だけの練功です。
我々や大成拳の練功では、中身を重要視しているため、見た目からは何をやっているのかまったくうかがえないことがあります。
形だけ真似してなぞってもそれは決して蔡李佛にはなりません。
我々が学ぶ蔡李佛拳というのは、内側の功のことだからです。
そのため、私のように不器用な人間は、肉体と神経が蔡李佛になってしまっている以上、形として何をしても蔡李佛になってしまうので、多門との弊習ができないのです。
これは易筋の武術の多くがそうかもしれません。
A拳にB拳を加えれば鬼神もこれを恐れると詠んだある拳の先生は「ただこのB拳はあくまで我々のA拳の中でのB拳であって、B拳門のB拳ではないのでその区別は大切だ」と言っていたと聞きます。A拳の体に、易筋、易骨されているからではないでしょうか。
私たちの門は蔡李百套と言ってどんどん他門の物を吸収してきた歴史がありますが、それもこのような経緯があるからではないでしょうか。
であるからこそ、私は自信を持ってこれが功夫の拳だと言うことができます。
よく、中国武術の技は使えないと言う人が居ますが、私たちの考えに限って言うならそれでよいのです。
その技をかける内側の力やかける神経の操作がこの門の本質であるため、技そのものに特別な物はありません。
使えない人が真似すればまるで使えません。
体が遣える人間が行うから、無理矢理に効かせられてしまうというだけです。
私のような非才の凡人を、遣えるようにしてくれたカリキュラムにこそ、蔡李佛という門の真価があると思っています。