昨夜の練習中、師父から教わった言葉です。
「縁なき衆生は度し難し」
この、縁と言うのは仏教でとても重視されていることのようです。
どれだけ世の中に良い物があっても、幸せになれる方法があっても、それに縁が無ければ接することは出来ない。
私が日々こうして発信をしているのも、その縁の可能性を広げるためなのですが、それとてそれだけで機能するとはとても言えません。
様々な切り口でお届けしていますが、内容を読んで面白いと思ってくれても、その人自身が自分事として捉えるに至るかはまた全然別の問題です。
これは練習に直接来てくれている人たちも例外では無くて、せっかく来てくれて対面してお話を出来ていても、まったく話が伝わっていないということは多々あると思います。
自分できちんと吸収してゆこうと人だけが本当に縁があったと言えるのかもしれません。
そのような縁なき衆生の度し難さで連想するのは、孔子様の「女人と小人度し難し」という言葉です。
女人というのは当時の時代背景などもありましょうが、秦の陳勝の「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」という言葉もございます。
ちっぽけな人間にはどのような良い価値観も通じないということでしょう。
そのような人々をより具体的に表現した言葉があります。
「一身の安全をはかり、妻子を安泰ならしめている」という司馬遷の言葉です。
これは、自分と家庭の幸せを第一に考えている、という意味です。
現代日本の感覚からすれば、それこそが小市民的な身の程を知った正しい生き方ではないかと聞こえることでしょう。
それは、日本が考の心を中核とした儒教思想によって染まった国であり、そこにこそ諸悪の源が潜んでいると私が危険視するところです。
親孝行を是とし、家族をいつくしむことを理想とする。その心に始まって村に所属し、会社に所属し、世間に所属して個の責任を希釈して思考を放棄する。
それって単なポジション・トークですよね。
この甘言によって、近代日本の国民というのはとにかく国力を増やせばそれでよいという意図のもとに誘導されてきました。
お金さえ稼いでいればそれでいい、ステータスがあれば良いという価値観が世代や時代ごとの道程によって導かれて、意思を持たない群れのように引き回されてきたように思えます。
「会社は家族」「チームは家族」そのような詭弁がどれだけまかり通ってきたことでしょうか。
もちろんそのような厚遇は上からはもたらされません。これは下を抱き込んで対価を公正にあがなわないための嘘です。
そのようなペテンに「家族」という言葉がもたらされた途端になにがしかの力が伴ってしまうことの恐ろしさ。これこそが美辞麗句の恐ろしさなのではないでしょうか。
その背景には、家族こそが第一であるという、人間の弱みに付け込んだ部分があるのではないでしょうか。
自分や身内の利は一番最後である。そのような公と義の心を持つには、人はあまりにも弱い。
そのような苛烈な善から目をそらすために「でも家族が……」という逃げ口上を唱える人々の心にくさびを打つような強さがここにはあるように思います。
公と義を捨て去るための自らのペテンによって、多くの人はより大きなペテンに取り込まれてしまっている。日本社会の大好きな共犯関係の構造がそこには見えます。
高度成長期のサラリーマンが一緒にいぎたなく酒を飲んで人の悪口をいい、風俗に行くというのはその共犯関係によってしかかりそめの信頼が作りえないからでしょう。
そのような場所で志や理想を説けば、あいつはなんなんだと煙たがられることは明白であるかと思われます。
ここまでに出てきた、思考、公、義、志、理想と言う物を捨て去って経済発展は成り立つ。
そのさもしさを塗り固めるのが「家族のため」という虚構です。
本当は単に自分の利のため、私利最優先ということでしかない。
そのような浅ましい、卑しい人々を見ていると大変心が寒々しくなります。
しかし、それはあくまで私個人の感想。
当人が幸せならそれでよいとずっと思ってきました。
ですがとっくに高度経済成長などと言う物は頭打ちとなり、そこから得られる利などは無くなっています。
となると残るのはさもしい人となりを持つ醜い群れだけ。ということにはならないでしょうか?
人格が良いわけではなく、頭も悪く、身体が利かない人を目にした時、正直私の中に「なんなん自分?」という気持ちがわくことがあります。
心と知性と肉体というのは、人間の存在すべてであるように感じるところがあるからです。
そして、そのような人間を量産してきたのが、ここまで書いてきた度し難い小人を利のために作り続けてきた国の方針なのではないでしょうか。
経済能力のみを至上とし、金さえ稼いでいればそれでよい、ステータスがあれば立派であるという教育は、常に金がない奴は下等だ、ステータスが無いと惨めだぞ、という強迫を伴っていませんでしたでしょうか。
そのような脅しから常に怯えによって逃げるように働いてきた人々に、経済的恩恵を得られなくなった段階で残されるのは
未成熟な精神と考える習慣を放棄した脳、衰えた肉体という物だけではなかったでしょうか。
結局、我が身には何も残らないということではありませんか。
自分を獲得することが出来なかったまま、そうしてみすぼらしくすり減っていくのは一体どのような生き方でしょう。
もちろん、景気がいい時に散々人々を煽ってそこに追いやった国は何もしてくれません。
当人が自ら捨て去った人間性の返還を求めることなどできはしません。自己責任です。
私は世間と離れて閑居した暮らしをしていますが、時に世間の人に触れることがあると、一見ちょっといいなと思うようなことがあってもよく知れば中身はみんな同じで踊らされて怯えてヒステリーを起こしているだけの人であったりすることが非常に多い。
そのような人たちに接すると、本当に心が冷え込みます。
生きると言うこと。命と言う物を温め、幸せを得るのは個々の心と思考と肉体によるのではないでしょうか。
時に苦をももたらすそれらを放棄したところから、すべてを無くす第一歩は始まっているのではありませんか。
縁の出来たどなたかが、自分の命と人生を取り戻すことになってくれることを願ってやむことがありません。