前回書いた歴史に続いて、コンヴィクト・コンディショニングのコンセプトから検討してゆきたいと思います。
その目的は、より長期的に筋力を成長させることだ、とポール・ウェイド氏は著述しています。
そしてもう一つは、健康。
強さと健康の二つが彼の中核のテーマとされています。
これはとくにボディ・ビルに対するアンチテーゼとしての面を強調していて、筋力の比率が悪い筋肉量や、強さとは言えない種類の力に対するものである部分が大きい。
日本ではあまりイメージがないのですが、アメリカではそれだけ、ウェイト器具によるトレーニングとステロイドによるボディビルが盛んなのでしょう。
アメリカ式のボディビルの体格が一時的な物であり、健康に悪いということがこのアンチテーゼの根幹にはあるようです。
日本ではハードに鍛えているジムワーカーは、ビルダーよりもスポーツをしている人であることが多い印象を受けますので、社会の違いが感じられます。
ただ、スポーツの補強で来ている彼らも、あちこちにテーピングやサポーターをしており、やはりスポーツ障害を抱えている人は多いように思います。
それらに対する予防とリハビリについても、コンヴィクト・コンディショニングは想定されて作られています。
伝統的なアジアの身体操法では、それらの要素もありつつも、本目的は別にあることが多いように思います。
それが「能力開発」であり、さらに言うなら「悟りへの道」という哲理への方向性です。
この部分はコンヴィクト・コンディショニングにはいまだ含まれていないところがあります。
ここで言う「能力」とはウェイド氏が言う「筋力」や「防弾」する力ではないからです。
より生物的な深部に迫る、少ない呼吸で活動する能力や低い気温に耐える能力などの、筋力とは別の部分に至ることがヨガや気功では一般的です。
これは、コンヴィクト・コンディショニングにおける体を通るラインというのがあくまで筋力の繋がりであるのに対して、ヨガや気功でのセン、経絡という物が五感や内臓の働きなどを兼ねた物であることとかかわりがあるように思われます。
そしてそれらの開発をしてゆくことは、精神的な悟りに向かうという考えがあります。
この相違は最も大切なところであるように思います。
私はどれだけコンヴィクト・コンディショニングを素晴らしいものだと思って実践しても、それが参考にとどまると考えているのはここに由来します。
我々の目的はあくまで精神の安寧と哲理の理解であるからです。
ヨガや気功では時に、その追及が行き過ぎて生命をおろそかにすることさえあります。
ウェイド氏にとってきっとそれは「馬鹿げたマッチョ的姿勢」であることでしょう。
私個人としては現在、そのような危険な挑戦を指導したり推奨することはありませんが、ヨガにおけるチャクラを開くための危険な行や仏教における即身仏のような物を否定することもしがたい部分があります。